見出し画像

愛犬との死別

 星新一の小説に「目を閉じると眠れない」という物語があったが、今の僕がその状態だ。

 午前4時22分。
 2時間前にベッドに入ったのに、目を閉じると愛犬との想い出ばかり浮かんで一睡もできない。

 2020年9月29日、時刻は午前5時30分。

 僕の愛犬トム(都夢)が永眠した。

 予兆はあった。

 次は、トムの死の2週間前、僕の9月16日のtwitterである。

 以下、親バカをご容赦願いたいが、トムは本当に頭の良い、そして優しい子だった。

 どんなに甘えたくても、決して人の邪魔をしない。

 僕たちがご飯を食べている時も、じっと座って自分の順番を待っている。

 遊んであげてても、僕がパソコンに向かった途端にじっと座って、絶対に仕事の邪魔をしない。

 両親が寝て、自分が寝付けない時には、決して両親を起こすことはなく、一人でぬいぐるみやボールを咥えて薄暗い部屋の中で時間を潰していた。

 そんなトムが、僕がご飯を食べていたり、仕事をしているときに突然、「遊んで」と言わんばかりに膝に抱き着いてくるようになった。

 そのときに、僕は嫌な予感がした。

 その後、みるみると体調が悪くなり、死の1週間前には食べ物を一切食べなくなった。

 病院に連れて行き、「これなら食べるでしょう」と医師に勧められたチューブのご飯も食べなかった。

 そして、死の3日前からはついに水も飲まなくなった。

 死の前日、トムが激しく痙攣をした。

 あまりに苦しそうで、僕たちは直視できなかった。

 母は号泣していた。

 しかし、その痙攣も収まり、「明日にはまずは水だけでも飲んでくれるといいのに」と、母が涙を拭いながら言った。

 そして、運命の日。

 トムは相も変わらずご飯も水も口にしなかったが、苦しそうな様子もなかった。

 ただ、一日中父から離れず、さすがに父もこの時に「その時が近づいているのではないか」と思ったらしい。

 実は、僕は今、11月発売の本の著者校正で目が回るような忙しさで、午前3時まで仕事をして、それから風呂に入る生活である。

 僕が風呂から出て、2階で寝巻きに着替えていると、深夜にもかかわらず父が顔を出した。
「トムの様子がおかしい」

 階下に行くと、前日同様に痙攣を起こしている。

 母を起こすとパニックになるので、二人で様子を見ていたが、痙攣は収まってくれた。

 しかし、その後、トムは異様な行動に出る。

 水の入った皿の前までよろめきながら歩いていき、そこに座って水を見つめている。

 犬を飼った経験のある方ならおわかりのとおり、犬は座って水を飲むことはない。

 もはや、立ち上がる気力がないのだ。

 父は、トムが赤ん坊の頃を知らない。

 最初の2年は、トムは僕と東京に住んでいたからだ。

 そこで、咄嗟に当時のことを思い出し、母が寝ているベッドの横にある箱の中から僕はスポイトを取り出した。

 この音で母が目覚めてしまった。

 僕が赤ん坊の時のようにスポイトを咥えさせると、トムは3滴だけ水を飲んだ。

 と、次の瞬間、いつもおやつを食べていた場所まで突然歩いていき、しばらくそこを見つめていた。

 母は、「トムが元気になった」と喜んだがそれも束の間。

 トムは、いつも自分が寝ていたベッドに飛び乗ろうとしたが、それが彼の人生で最後に振り絞った力だった。

 そんなに弱った体ではベッドに飛び乗れるはずもなく、次の瞬間、また痙攣が始まった。

 しかし、それまでの痙攣と違うのは、トムはそれでも歩こうとした。

 否、わずか十歩だが歩いた。

 そして、我が物顔でいつも一人で遊んでいたマットの上に乗った瞬間に気を失ったかのように倒れ込んだ。

 母が、「あつし! すぐに夜間診療をしてくれる病院を探して!」と我を失って叫んだが、すぐに父が制した。
「もう、ダメだ。刹那ぐそだ」

 見ると、トムは脱糞をしていた。

 この1週間、ご飯をまったく口にしていなかったのに、どこに溜め込んでいたのかという糞を垂れ流していた。

 父はすぐにティッシュやタオルを取りに行ったが、それと同時にトムの瞳孔が開いた。

 人間でいう昏睡状態になった。

 トムは大の水嫌いだった。

 こればかりは、犬は完全に2パターンに分かれる。

 トムを風呂に入れるのは僕か父の役目だったが、「お風呂だよ」と言うと石像のようにかたまり、おかげでトムの体を洗うのは楽だった。

 それでも、風呂から出たあと30分くらい部屋の隅で呆然としていた。

 母が泣き止まないので、僕は思いつく限りのジョークを言った。

「トムは今、三途の川の前にいるけど、水嫌いだから泳げないんだよ。だけど、すぐに渡るよ」

 僕のセンスのかけらもないジョークの10分後、トムは決心を固めたらしい。

 三途の川を渡った。

 父が、トムが息を引き取ったのを確認し、「今日中に荼毘にふしてあげたい」と電話帳でペット霊園を調べ始めた。

 僕は、ショック状態よりも、もうトムが苦しまなくて済むという安堵感と仕事の疲れから仮眠を取った。

 そして、死の6時間後に火葬をし、最初は庭に埋める話になっていたが、両親が「ずっとトムと一緒にいたい」と言い出し、父が今度仏壇を作ることになった。

 2004年に小説家を夢見て東京に移り住み、2007年5月1日にその小説が出版された。

 20万部のベストセラーとなり、2回舞台化された『エブリ リトル シング』だ。

 トムは、『エブリ リトル シング』の発売の2日後、5月3日に生を受けた。

 念願の小説デビュー。

 しかもベストセラー。

 しかし、僕は精神的に追い詰められていった。

 メールを受信すれば、大手から聞いたこともない会社まで、中には詐欺を疑うような会社からのさまざまなオファー。

 テレビにも何度か出演した。

 雑誌の取材本数はもはや覚えていない。

 そして、胡散臭い芸能関係者からの男の本能をくすぐるような甘い誘惑。
 当然だが、彼女がいた僕はすべてお断りした。

 やがて、みるみると僕の精神は擦り減っていき、その前から元カノの影響で犬が欲しかった僕は、彼女に相談しようと決めた。

 元カノのアドバイスは次の二点だった。

●シーズーは大人しいからお勧め
●純血は体が弱くて病気がちだから混血がお勧め

 そこで、シーズーとなにかを掛け合わせた犬を探し求めたが、ネットでは見つからなかった。

 そんな7月のある日、その日も芸能事務所の接待を受けて六本木で遊んだ僕は、六本木交差点のすぐそばにあるペットショップに足を踏み入れた。

 すると、「シーズー×チワワ オス」という名札が目に入った。

 見ると、真っ黒な犬だった。

 ついに元カノの条件を満たす犬を見つけたが、僕は白い犬が欲しかったので、やめておくことにした。

 眠っていたわずか400グラムのその仔犬に「いい人に買われるんだよ」と声をかけたら、その子が突然顔を上げて僕の目を見た。

 そして言った。

「僕をあなたの犬にしてください」

 次の瞬間、僕は店員を呼び、持ち合わせがないので1万円、内金を払うので、明日まで絶対に誰にも売らないように頼み込んだ。

 値段は伏せるが、その仔犬はなぜか格安だった。

 僕は、真っ黒だからかな、としかその時は思わなかった。

 そして、翌日、その仔犬を買って、部屋で名前を考えた。

「僕は東京で夢を叶えた。
しかし、とても幸せと言える状況ではない。
それならば、もっと大きな夢を手に入れよう」

 これが都夢(トム)の名前の由来だ。

 しかし、その後、僕はトムの異変に気付く。

 頭頂部が凹んでいるのだ。

 すぐに病院に連れていくと
「頭蓋骨が綺麗にくっつけば心配はありません。しかし、その確率は半々。もし、この状態が続いたら、この子は長生きできませんね。とりあえず、半年様子を見ましょう」

 トムがなぜ格安の値段だったのか、その理由を知り、悲しさと悔しさで部屋で涙を流した。

 あるときは、トムを膝に載せて爪を切っていたら、僕のパジャマが血だらけになっていた。

 パニックになった僕が元カノに電話をすると
「まさか、深爪したの!
犬は、爪にも血管が通ってるの!
これからは、爪切りはトリマーに任せなさい!」
と怒鳴られた。

 それでもトムは、痛い表情も見せずに、僕の失態を責めるでもなく、僕の頬を舐めてくれた。

 実は、今この文章を書いているこの瞬間も、あのときのトムの瞳が脳裏に浮かび、パソコンの文字が滲んでいる。

 そして半年。

 無事に頭蓋骨は綺麗にくっついてくれて、トムは13年2ヵ月、風邪一つひかず、一切の迷惑もかけず、我が家一の優等生として家族として暮らしてきた。

 今心配なのは両親だ。

 トムの火葬が済んだ昨日の夕方、落ち込んだ両親は心療内科に行って精神安定剤(的な薬。僕にはよくわからない)を処方してもらった。

 孫を失ったも同然なのだから、その悲しみや想像を絶するものがあるだろう。

 せめて、僕は気持ちを強く持って、両親を支えていこうと思う。

 また、僕は以前、『100万回生きた犬』という小説を書いた。
 自分で言うのもなんだが自信作である。

 ところが、「『100万回生きたねこ』のパロディーのようなものは出版できません」と、原稿を読んでもらうことすらできなかった。

 僕は、必ずやこの『100万回生きた犬』をなんらかの形で世に出そうと決めた。

 それが、トムに対する最高の供養だと信じつつ、このエッセイを閉じたい。

画像1


記事はすべて無料でお読みいただけます。いただいたお志は、他のnoteユーザーのサポート、もしくは有料コンテンツの購入費に充てさせていただきます。