見出し画像

タルコフスキーのサクリファイス

 アンドレイ・タルコフスキーの『サクリファイス』を観た。1986年公開の作品で、カンヌで4冠を達成した巨匠の遺作である。タルコフスキーは次なる作品として『ハムレット』の映画化を構想していたという。「人間的、あまりに人間的」なデンマーク王子ハムレットをどのように描いたのだろうか。54歳での早逝が惜しまれる。
 真理というものは極めて明快なかたちで開示されるものだ。新約聖書に登場する「善きサマリア人のたとえ」はその一例である。「行って、あなたも実践しなさい」。盗賊に襲われ、大怪我をした人を介抱したサマリア人。彼は介抱するのみならず宿屋の主人にお金を渡し、その怪我人を看病するよう頼みさえする。「費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います」。このサマリア人の行いが真理であることは明らかだ。利害を超えての無償の奉仕、いったいどれだけの人が実際に実践することが出来るのだろう。真理は明快であればあるほどその実践は難しくなるのではないだろうか。
 『サクリファイス』における真理と実践も極めて明快な形で描出されている。主人公アレクサンデルは、核戦争によって終焉の危機を迎えて世界を救済するために自己を捧げることとなる。自己犠牲によって世界が救済されるという構図はシンプルだ。しかし、この映画の場合、自己を捧げる行為には大変な逡巡と苦悩が待ち受けている。これまた非常に「人間的、あまりに人間的」な主人公だ。『ニーベルングの指輪』の最後において自ら火の中へ飛び込み自己犠牲を果たすブリュンヒルデの毅然とした態度とはわけが違う。ラストにおける自分の家に火を放つシーンでのアレクサンデルの行いは狂気と紙一重のように映るのであり、この物語全体が彼の妄想であったのではないかという不安を観るものを与えずにはおかない。狼狽する彼の家族の様子がそれを際立たせている。
 『ノスタルジア』で作品における内声として響いていた「犠牲」というテーマが遺作『サクリファイス』において全面に出てきた。かつてタルコフスキーは『ノスタルジア』に関するインタビューでこのようなことを言ったそうだ。「この分かたれた世界で人が人といかにして理解しあえるのか? 互いにゆずりあうことでしか可能でないでしょう。自らをささげ、犠牲とすることのできない人間には、もはや何もたよるべきものがないのです。(私自身が犠牲をなしうるか?) それは答えにくい事です。私にもできないことでしょうけれども、そうなれるようにしたいと思います。それを実現できずに死を迎えるのは実に悲しい事でしょう」。
 他者の、あるいはその他者が生きる世界のために奉仕するひとつの究極の手段としての自己犠牲。皆が世界のために自分の家を燃やす必要はないし、アレクサンデルのように魔女と交わることは出来ない。しかし、どこかで誰かが他者のために犠牲となり、その行為のおかげで生かされている自分がある。人は生きているのではなく、生かされているのだ、このような「真理」を私はごうごうと燃え盛る家を眺めながら考えるのだった。M2:E

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?