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ワーグナーと「影」

 「夢分析を始めると、まず影の像が出現することを述べたが、夢分析によらない普通の話合いのカウンセリングの場合にも、影の話題がよく出てくる。自分の周囲にいる「虫が好かない人」を取りあげ、ひたすら攻撃する。自分はお金のことなどあまり意に介していないのだが、同僚のXはお金にやかましすぎる」。「話合いを続けてゆくと、結局は、この人が自分自身の影の部分、お金の問題をXに投影していたことが解り、この人がもう少し自分の生き方を変え、影の部分を取り入れてゆくことによって問題が解決され、Xとの人間関係も好転することが多いのである」(河合隼雄『影の現象学』より)。
 『パルジファル』の初演の指揮を務めたユダヤ人のヘルマン・レーヴィをキリスト教に改宗させようとしたワーグナーのことだから(レーヴィは遂に屈することはなかった!)、彼はユダヤとの折り合いを最後までつけることはなかった。それどころか、ゲルマニストのハルトムート・ツェリンスキーの解釈に沿えばユダヤの表象としてのクンドリー(『パルジファル』に登場する唯一の女性のキャラクターで、十字架を背負うイエスを笑ったが故に永遠に彷徨い続ける呪いを受けている)は、ワーグナーが自身の著作『音楽におけるユダヤ性』で述べた不穏な一言「Vernichtung(没落)」を実現してしまっている。「金融のユダヤ」を批判したワーグナーは、ならば金に関心のない、清貧な芸術の徒であったか。
 決してそうではない。彼はパトロンとなったルートヴィヒ2世に取り入りバイエルンの財政を揺るがした男である。「11月には、ミュンヘンの新聞「フォルクスボーデ」(11月26日付)が、ヴァーグナー(ママ)はこの年すでに政府から19万グルテンを受け取り、さらに4万グルテンを要求していると報じた」。「バイエルンの人々にとってはこれでもう十分だった。このときまでに反ヴァーグナー感情は宮廷にとどまらず、社会の広範の層にまで浸透していた」(吉田寛『ヴァーグナーの「ドイツ」』より)。
 今や芸術家は高給取りである。指揮者が世界の名門オーケストラと驚くほど高額な契約を結ぶ時代であるが、当時アーティストは今ほどまでには社会において市民権を得ていなかったし、何より彼らを保護する著作権も未発達だった(「世界での著作権に関する標準的条約」であるベルヌ条約が調印されたのは1886年、ワーグナーの死後の出来事であった)。そのような時代(芸術家の市民権が確立していない時代)に高給取りたろうとするワーグナーが市民から歓迎されるわけがない。
 ワーグナーに当てはめて考えれば、先程引用した部分のXはユダヤ人である。今や芸術家は自分の野心を追い求め、成功を手にし、高給取りになっても批判されない時代である。しかしそうした価値観が浸透していなかった時代を生きたワーグナーにとって欲望は抑圧され、その反動として金(融)の象徴をユダヤ人に、「投影のひきもどし」(「その人物に対して投げかけていた影を、自分のものとしてはっきりと自覚」すること『影の現象学』。)を行わないまま、反感を抱き続けたのではないか。ヘアハイムという演出家は実際、『マイスタージンガー』でユダヤ人とされたキャラクター、ベックメッサーにワーグナー本人を投影し、この「影」を表象せしめたこともある。

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