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『薫香の姫君』episode1~青紫との添い寝



 昔、とは言っても、神獣がまだ現世にいたはるか古代。

 現代でいう、西洋にあたる国に、金角の一角獣がいた。

 一角獣やその他の神獣は、どのように生まれたのか分からない。そもそも、当の本人でさえ、己がなぜ、どこから、何のために生まれたのかも知らないのだから。

 ひとまず、一角獣は、西洋の国では、「病気を治す」、「金銀を守る」など、人間の勝手な願望で崇められていた。
 中には、金角が、不老不死の薬になるという訳の分からない噂で、命を狙う人間もいた。無論、一角獣は、己が命を狙う人間は、躊躇なく殺した。

 一角獣を狙う人間の武器は、時を経るごとに変わっていった。木の棒や石から、剣や弓矢へ。さらには、猛毒が塗られた弓矢もあったが、一角獣は当然効かなかった。一角獣は汚れのない処女を好むという根も葉もない噂から、少女やその仲間の集団が一角獣に近づき、不意討ちを狙うこともあったが、これまたすぐに見破り、少女や集団を殺した。

 本来であれば、生き物の草の一葉でさえ命を奪うことを嫌う一角獣であったが、人間の命を奪ってきたことから、「怒りに触れれば命を狙う野蛮な獣」という噂もたてられるようになった。


 人間の愚行に辟易する一角獣が、やっと、心の底から落ち着いたのは、一本の木。

 大木ではないが、空高く、真っ直ぐに伸びた姿。緑葉が、風にそよぐと、清々しい香りを届けた。

 一角獣は、この木を気に入り、昼はその周りを翔け、夜は、その根本で、寄り添うように身を下ろして眠った。

 一角獣は、滅多に食べ物はおろか飲み物もあまり取らない。だが、どうしてものどが渇き、水分を求めることも多少ある。安らぐ木の、雨や朝露に濡れた葉の雫を口に含む時は、至福の心地がした。
 雫をそっと舐める時、唇が緑の葉に触れた瞬間、一角獣はふっと恥じらいと喜びの心地がした。
「人間で言う『接吻(キス)』とは、このような心地なのか。」

 暖かい季節になると、その木には白く可憐な花々を咲かせる。

己が鼻にその香りが入ると、一角獣は陶酔した心地になる。
『この木に感謝したい。』
一角獣はそう感じた。

ある季節、香り高い青紫の小さき花々が咲く野に、一角樹は、一晩中駆け回り、その芳香を身に纏った。生まれつき、草や花を摘むような、植物を傷つけることができない性分から、唯一、花の香りを、自らの体に移るように駆け巡る。自らのたてがみ、皮、蹄までその香りが移るまで十分に駆け巡った後、安らぎの木へ近寄り、自らの身体を幹に引き寄せる。
『喜んでくれただろうか・・・』
一角獣の瞳には、いつの間にか一本の木が、かけがえのない愛おしい存在に移っていたのである。

ほどなくして、いつものように青紫の香りを届けようと一角獣が幹に近寄ったところ、幹に白い点がついているのに気づいた。
『何だろう。』
それが、木を蝕む病の源であるとは知らず、一角獣は平生とは変わらず香りを届けた。
 次第に次第に、白い点が幹中に広がり、花を咲かせることはなく、緑葉は枯葉になり散った後生えることもなく、枝も細く渇き初めた時に、一角獣はことの重大さに気がついた。
 すぐさま、何とか助けたいと、一角獣は、人間のいる所へ助けを求めたが、むろん命を狙われた。武器を振りかざす人間に、一角獣は木を助けてほしい一心で、抵抗しないまま低く頭を下げた。
 これまで、人間の命を奪ってきた罪への謝罪、そして、大切なものを救ってほしい切な願いをこめて、頭を下げた一角獣は、人間に罵られ、痛めつけられるままであった。
 身体中おびただしい血を流しながら、人間たちが去った後、一角獣は、痛めつけられた足をひこずりながら、木のものへ帰っていった。灰色の空、次第に、冷たい風が病の木に追い討ちをかけるように吹きつける。

 為す術もないまま、一角獣は静かに枯れゆく木の根元で倒れ込んだ。愛おしい存在を助けることができない苦しい悲しみから、一角獣は一声啼く。ゆっくりと見上げると、まだ、枝は落ちていないものの、冷たい風に煽られて木肌が朽ち果ていることが分かった。
 次第に夜になり、空から白い雪が降る。一角獣は、もはや木から終始離れまいと決めた。白い雪が、細い枝に積もり、まるでまた白い花を咲かせているようだった。自らの身体の熱もつき、木を温めることができないと悟った一角獣は瞳を潤ませて、木の根にそっと口吻をした。

『もし、また逢えたら、どんなことがあっても、貴女の傍で。』

やがて、朝日を迎える頃、一本の枯れ木と一角獣の亡骸が白い雪で包まれていた。



・・・平安の世。

「まな様・・・。」
机でうたた寝していた愛(まな)にそっと駆け寄る一角(ひとづの)。

「う、うーん。」
邸での書き写しの仕事が大量に来たので、ここ数日、夜な夜な持ち帰りの仕事に追われていた。寝る時間も削って仕事に励む妻に、夫は寄り添い手伝いをしていた。

「ご加減は?夢にうなされていたのか、苦しんでいた様子なので。」

「大丈夫よ・・・。書き写しの仕事が気になって、仕方なくって。」

「だいぶんお疲れのご様子。私の分も終わりましたので、明日、まな様の残りも手伝わさせてください。」

「なんだか悪いね。今もこうして傍にいてくれるだけで、いつも一(いち)さんに頼ってしまって。」

「まな様のお役に立てれば、私は嬉しいです。」


 一角の褐色の瞳が微笑で細くなるのを見ると、愛はどうしても自らの心がキュッと心地よく締め付けられ、頬に熱を帯びるように感じる。

「寝床も準備しましたし、ゆっくりお休みを。」

愛は、残りの夫が二人していつものように酒の飲みくらべをして、いびきをかく姿を見て、静かに微笑んだ。

「また、黒さん、王さんもお酒飲みすぎて。もう寝ちゃったのね。」

夫たちに暖かい衣類をかける妻に、一角は優しく、愛おしく感じた。平生は、自ら進んで妻に迫ることはなかったものの、この時ばかりは、無性に愛の存在がかけがえのないもののように一角は感じた。

愛が自らの右のこめ髪をふとかき分けた。っとその瞬間、愛本人には気付かない香りが一角の鼻に届く。

『この匂い。この匂いが、私の心を震わせる。』

おもむろに一角は妻を抱き上げ、寝室へと連れて行った。
愛はあっと思いながらも、夫の褐色に潤んだ瞳に見つめられて、身を委ねた。

「今日は一段と冷えますので。私が傍におりますね。」
寝室にて、一角は愛に布団代わりの青紫色の衣を掛ける。衣には、薫衣草(ラベンダー)の香りが染みついている。明かりに灯した蝋燭の光が、夫の麗しき瞳をゆらゆらと照らす。

「良い香り。」
妻の微笑む顔を見て、一角はもはや平生の冷静さを忘れていた。

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