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辞任した小山田圭吾さんについて考える

小山田圭吾さんが、過去の障害者虐待行為にも拘らずオリパラ開会式の演出に関わったことで批判を受けています。本人および当時それを雑誌記事にした編集者が謝罪文を公開しましたが、炎上が収まる気配はありません。そしてついに7月19日の午後になって、五輪開会式作曲担当を辞任する旨の報道がありました。

開会式まであと4日になって辞任というのは意味がわかりません。小山田さんの作曲による楽曲を、他の作者のものに差し替えるということなのでしょうか。こんな政治的な配慮は根本的な問題を隠蔽するもので、叩かれたから辞任してもらって問題なし、という手口に乗ってはいけません。

このように、この問題はいくつもの要素が複合的に重なり合っていて、どの点を問題視するのかは人それぞれでしょう。僕は、表現者としての小山田さんに関心があります。彼の音楽を聴いたことはありませんが、僕は、モノを創る人々全般に対して、憧れと敬意と親しみを感じているのです。

如何に有名人とはいえ、名前も顔も出ている個人にとって、今回の批判の重圧はかなりのものだったでしょう。複数の芸能人からやや擁護的な発言も聞かれましたが、もし僕が小山田さん当人だったら、「俺が何をどうしたら許してもらえるのだろう」と途方に暮れたかもしれません。だから辞任、であってもそれは取り敢えずの処置でしかありません。

この「途方に暮れる」ことに光明を見ます。最終的には虐待をした小山田さん本人の内面の問題だと思います。口先ではなんとでも言えるし、今回の辞任劇だって加藤官房長官から組織委員会に苦言を呈したのだから、実質解任ということでしょう。

そうじゃなくて、心のあり方の問題、過去の自分の行為を今、振り返ってどう感じるのか、そしてそのことにどう向き合うのか、それがはっきり見えているか、そのことがよほど重要で本質的な問題です。

要は信念があるかどうかということです。過去の自分は間違っていたと思うのも信念、若気の至りだと思うのも信念。表現者としての自覚があるのなら、その信念を作品として昇華して世の中に発表し、それが受け入れられるかどうか、自分の目で確かめてほしい。表現を続けるのであれば、僕はそれを望みます。