あうたりわかれたりさみだるる
五月雨式に申し訳ございませんが、とメールを書き出すとき、未だにいつも少しだけ、社会人になったなあという気持ちが顔を覗かせるが、その度にこいつは碌な社会人ではないと反省することになる。
社会人なりたての頃、五月雨式に申し訳ございませんが、から始まる先輩のメールを見て、わざわざ意味を調べた。
使うべきでないのにこんなに使いたくなる言葉があるとは、と思った。乾燥したビジネスメールの中に降って湧いたように現れる叙情は、まさにオアシスのようで、私自身も度々メールに長雨を降らせているうちに、気づけば3年目、本物の長雨が降り出さんとする季節になっていた。
そもそも五月雨、という言葉はなんだか奥ゆかしさを感じさせられる。他に月の名を冠している雨はないし、小学1年生に立ち返れば、間違っても五月雨は「さみだれ」と読みそうにない。熟字訓というものは往々にして漢字と読みが乖離しがちなので仕方ないが、それでは「さみだれ」とは一体何なのか。
さ・水垂れ。キリマ・ンジャロほどではないが、そこで切れるのかと驚いた。耕作の季節に降る雨は、そのまた昔は恵みの雨だったのだろう(雨量にもよるが)。今や五月雨はコンクリートから跳ね返ってスーツの裾を濡らし、人々の眉間にじんわりと皺を寄せている。
雨は嫌いではない。むしろ好きだったかもしれない。高校生の頃、雨の中自転車で学校まで立ち漕ぎしていったことが何度もあった。もう冷たくはない水を全身に浴びながら、仄かな雨の匂いを嗅いでいた。教室に着いたら、びしょ濡れの制服から体操着に着替え、靴下を脱いで、そのままの格好で1日を過ごした。公衆においても制服を着なくてよいと、雨が免罪符をくれた。
五月雨が間もなくやって来る。傘が歩道を覆い尽くす中、私は傘も差さずに立ち尽くす。髪をセットしているジェルはとうに水で落ちていて、ぺたんこになった頭頂部に、通り過ぎる傘の先端から雫がいくつも滴り落ちる。しばらく止んだかと思えば、五月雨式にごめんなさいね、とばかりにまた降り始める。周囲から奇異なものを見るような視線を浴びせられても、大して気になるものではなかった。私は私を耕すのに集中しているから。
そして雨雲が入道雲になると、私はスーツを脱ぎ、靴下を脱ぎ、お気に入りのTシャツとサルエルパンツに着替える。革靴も脱ぎ飛ばして、やっぱり表向きに着地したのを見届けてから、サンダルに履き替える。これでいい。ここまでが免罪符の範疇だから、あとは自分で歩き始められる。
…なんて想像しながら、私はオフィスの傘置きの横に折り畳み傘を立てかけ、少し湿った革靴を履きながら勤務するのだろう。雨はいつまで続くんだろうな。もう水無月、6月になっているけれど、旧暦は1か月ほど後ろにずれているので、実際の「皐月」は6/28に終わるらしい。その頃にはきっと、紫陽花は向日葵に覇権を明け渡していて、ああ、今年もゆっくり紫陽花を眺める機会はなかったなあ、と少しだけ後悔するのだろう。そう思うくらいなら、
…はい? あ、たしかにあれだと誤解を招きますよね。わかりました、先方には追ってメールをお送りするようにします。大変失礼いたしました、やっぱり碌な社会人じゃなくてすみません。
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