言語としてのフットボール
1. 言葉を持つ意味
言葉の成り立ちは何かを考えると、まず思いつくのは「コミュニケーション」がある。
「繋がる」こととも言えるだろう。
自分が毎日聴いているAll Eras Englishというポッドキャストの番組のテーマは「Connection Not Perfection」である。
「完璧でないからこそ繋がれる」とでも意訳できるだろうか。
自分はこの半年間言語を人に教える時間を通じて、なぜ言葉が生まれ、それが持つ意味、目的は何かを考えてきた。
英語ができるようになる。
スペイン語ができるようになる。
サッカーが上手くなる。
これらが意味することは人と”繋がる”ためであり、歴史と”繋がる”ためであり、世界と”繋がる”ためだと思っていた。
だが、最近はその先が少し見えてきたように感じる。
”繋がる”だけでなく、繋がった相手と言葉と言葉をぶつけることでより良いアイデアを生み出す。
潜在意識にある、自分や相手がまだ気づかぬぼんやりとしたイメージを形あるものに変える。
かっこつけて言うのなら、新たな付加価値を生み出す。
ちょっと調子に乗り過ぎたか。
2. サッカーという言語
サッカーは11人でプレーし、またファン、サポーターたちとプレーする。
サッカーという言語を持つ人間は、同じ時間、空間で、何千、何万という人と繋がり、共鳴する力を持つ。
自分は、2018年に初めてウルグアイに飛び立ち、2022年からはスペインでプレーし、今年でスペイン語圏で生活するのは7年目を迎える。
年々スペイン語が上達していったが、スペイン語がいくら上達したところで、サッカーをしている時に周りと繋がれない自分がいることに気づいた。
繋がれないのであれば、当然新たな価値も生み出せない。
サッカーで上手くいかないことが多い時期に、本当に向き合うべきはスペイン語ではなく、自分のサッカー観の停滞だと気づいた。
サッカーという言語は、人間的成長なくして上達を望むことができない。
言葉を学ぶうえで最も大事なのは、ルールやパターンなどではなく、まずはじめにアイデア、サッカーでいうサッカー観であると感じる。
いまはまだアイデア以外に上手く表現する言葉を持たないが、自分なりの価値観や人生観、スタイル、才能、それらの集まり。
それがあるからこそ、自分なりのサッカーが見えてきて、そして目標、目的が見えてくる。
世の中に溢れるほとんどの目標、目的は、誰かが言っていた言葉をそのまま頂戴していることに気づく必要がある。
自分が吟味して、生まれた目標かどうかが大事なのであって、他人の目標は自分の人生を見えずらくする。
3. サッカーの上達
サッカー観を持つには、サッカーを愛すること。
歩みを止めるのではなく、一歩づつでも前に進み続けること。
そこに近道や裏道は存在せず、怠慢やうぬぼれは歩みを遅らせる。
人生では、物事の帳尻が必ずどこかで合わさる。
良いものを与えてもらったなら、それをまた別の人に、より良い形で届ける。
与えてもらうだけの状態が続くと、その人は何かを同時に失っている。
それは最初は目に見えづらいかもしれないが、時と共にはっきりと、ある時明確に浮かび上がってくる。
それもひとつの学びなのかもしれないが、そんな恩を仇で返すような人間にはなりたくない。
サッカーという言語を持った自分が、どんな新たな価値を生み出せるか。
日々試行錯誤の繰り返すことがいまの楽しみである。
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