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ノイズキャンセリング、キャンセリング

先日、向島の古い喫茶店に立ち寄った。
立ち寄ったと言うか、わざわざそのお店を目指して出かけたのだ。
その店は、私が二十歳くらいの頃、すでにレトロ喫茶として度々雑誌に紹介されていた。なので娘に「この喫茶店に行ってみたい」と、誰かの投稿したInstagramの写真を見せられた時、行ったことがないのになんとも言えず懐かしい気持ちになった。

「ずっと来てみたいと思ってたんです。修繕しながらではあるでしょうけれど、素晴らしい内装のままお店を続けて下さって有り難いです。」みたいなことをマスターに伝えると、こんな話が聞けた。

私の父が65年前に始めた店を私が継いで、もう35年になる。私が学生だった時に父が急逝し、継ぎたいとか継ぎたくないとかの選択肢もなく、私がお店をやることになった。そうしないと学費が払えなかったから。
ただ、父はこういうことが好きな人だったけれど決して向いてはいなかったと思う。そして私は、これを生涯の仕事にするつもりなどなかったけれど、客商売や細々した店の修理やなんかが向いていたようだ。この店をなんとしても残そうと思ってやってきたというよりは、気がついたらこんなに長い間続けてこられてしまった。

喫茶店が喫茶店として現役のまま60年以上営業している建物は意外と少ないのだそうだ。

好きだけどあまり向いていないこと。
好きではないけれど人より秀でていること。
好きだし得意だけれど生活の糧にはならないこと。
成り行きで始めてそのままずっと続いていること。
人は何を仕事にするのが最善なんだろう、みたいなことをあれから時々思い出して考えている。

遅ればせながら昨年、初めてノイズキャンセリング機能のあるイヤホンを手に入れた。通勤途中に聴く音楽がより快適に楽しめるようになったのはもちろんだが、イヤホンを耳に挿した瞬間の「シュワッ」と世界の音が吸い込まれるような感じが堪らなく心地良い。電車の音やざわめきが遠くなって、積雪の早朝のような閉じた静けさが訪れる。
そしてイヤホンをはずす瞬間もまた良い。「ボワっ」と雑音が耳に戻ってきて、再び自分と世界が接触している実感がある。
銭湯や喫茶店で黙ってぼんやりしている時、私の心は内側に向いて閉じているけれど、耳などの五感はちゃんと世界と繋がっている。気配を半分消して、自分が幽霊になったかのようにそっと空気に溶けている時間が好きだ。
そして、そんな時にたまたまチューニングの合ったラジオのように聞こえてくる誰かのお喋りが、ちょっと忘れがたいくらい面白かったり味わい深かったりする。

誰かが何気なく話した言葉にドキッとしていたい。
だからやっぱり、世界との接点は半ドアに、雑音に疲弊しない程度で、あんまり完璧にノイズキャンセリングし過ぎない方がきっと楽しい。



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