誰そ彼

 そっとテーブルの下から這い出してみた。両手で塞いだ耳にはまだ祭囃子が残っている。

 いつの間にか雨は止んで雷雲は去り、テラスは陽に照らされている。だんだんと陽が傾き、森の方の空が茜色に染まってきた。誰そ彼時だ。自分が何に怯えてテーブルの下に逃げ込んだのかさえ思い出せず、ただ斜陽が刺す方を見つめた。

 誰かがやって来る。遠くの森から小さな影が近付いて来る。硝子に顔を近付けると鼓動が胸に蘇って来る。忘れていた息苦しさが心地良い。

 真っ直ぐこちらに向かう、頼りなくゆらゆらと揺れるその影は、時々止まって少し休むとまた歩き出す。その歩は遅いが迷いはなかった。何度もその名が喉を通り抜ける感覚を覚えたが声に出来ない。それがとてももどかしく、硝子を拳で何度も叩いた。

 (君の顔が見たい。)

 何故だか影が泣いていると思ったからだ。何を嘆いているのか理由は必要ない。泣いているのならその涙を拭いたい、その傷に寄り添いたいという思いはどんどん強くなっていく。影はすぐそこまで、硝子の外側の手を伸ばせば触れられそうな、すぐ側まで来ていた。 

 しかし、茜色の世界は深い藍色の帷に溶けて混ざり、やがて全てのものが境界線りんかくを失った。

 影もこの暗闇に溶けてしまったのか。

 突然の轟音。その刹那、ぼんやりと影の輪郭が浮かび上がるのを見た。夜空に咲いた大きな光の花が世界を照らし出したからだった。

入り口も出口も無い此処テラスに匿われている以上、傷つかないでいられる。痛みは無いがその声は届かず、の手すら取れない。頬を伝う涙を拭う術を持たない。こんな近くに在るのに。

こんなに近くに在る。彼の存在を感じる。このまま重なって溶けて混ざり合ってひとつになったら。彼はもう彼でなく彼の涙を拭う術はもう、無い。永遠にひとつになれない理由は彼が彼で、自分が自分であるが故だ。

 花開く轟音が硝子を震わせる。震える硝子越しにぴったりと重ねた二人の両掌から自分以外の熱を感じる。互いに額を寄せて、そのまま、ずっとずっとそうしていた。


序〜第三話、はてなブログからの転載です。