人は生まれついた環境がほとんど

生き方とは、自分で選び取っているようで実は、既に生まれついた家柄や、社会的なその位置によって決まっている。

たとえば、自分と経済力がまったく違う人たちの趣味を観察してみたり、知的教養のまったく異なる人たちの交わす会話の内容を聞いてみたりすると、自分が生きている世界とは全く異なる世界がそこにあることがわかる。

そしてそれを形作るのは、先に言ったように生まれた家柄や、育った土地などの環境が大きく左右する。もちろん、本人の努力によって自分が生まれながらに背負った宿命のようなものから、抜け出すことは可能かもしれないが、そんなことできる才覚にめぐれた人というのが、そもそもほとんどいない。

ということで、オレたちは自由に生きているつもりでも、どこに生まれ落ちたかで、生き方のほとんどは決まったも同然のようなものだ。

この話に違和感を覚えるなら、ピエールブルデューの「ディスタンクシオン」を読んでみるといい。そこに詳しく書いてあるから。

さて、その先の話だが、生まれついた時代や環境によって自分の生き方の大部分が方向づけられるなら、それを悲観するか楽観するかだけの違いだと思う。

おれは、後者の立場。つまり、それを楽観して生きる。

オレは、経済的、文化的にも乏しい家で育ち、大人になるにつれていわゆる上流の生まれの人たちとの違いをまざまざと感じてきた。

身につけるモノや趣味、食事のクオリティなど、明らかな差がそこにはあるし、それにとどまらず、言葉の使い方、所作、仕草、いわゆる「品格」というものは、どうしたって生い立ちがにじむ。

どんだけ金持ちになっても、下品な人というのは概して、生い立ちが貧乏の成金であったりするような話だ。

オレ自身が客観的に見て「下品」な側の人種であることにコンプレックスを抱えたこともかつてあったが今ではそれとも折り合いがつき、気楽に生きている。

先に「楽観」の立場を取ると言ったが、つまり、「なるようにしかならないし、あるようにしかあることができない」という、あきらめにも似た開き直りである。

どう生きたって、自分の生まれ落ちた環境から逃れられないならば、それを悲しむのではなく、「だったら悪あがきしても無駄だからやーめた」と、開き直るのだ。

その開き直りを前提として、自分磨きを淡々とやる。あきらめの土台の上に、自分なりに少しでも美しい建築物を建てようとするような試みである。

いいのだ。惨めになるな。苦しむな。比較して落ち込むな。オレたちと彼らでは、生まれながらに負っているものがまるで違うのだ。生まれながらに勝ち組のやつはいる。そいつらと比べても仕方がない。来世に期待しようや。

そんなことより、自分の境涯を「ウケる」「しゃーないな」「ジタバタせんくてええか」などと軽やかに受け入れて、自分は自分でテキトーに生きればいいのだ。


あ〜、金麦飲みてぇなぁ