頭では分かりきっていることが、できないのが人のありようというもよ

他人への期待というものは、厄介なものでそれが裏切られた途端に、ストレスに変わる。

ストレスとは期待の子供とも言える。ならば、他人への期待を一切捨ててしまえばいいと、頭では理解していながら、これを実際の行動に落とし込むのはなかなかに難しい。

人に、イラっとしてしまった瞬間の自分は、人はの期待を捨てきれていない自分のこと姿をありありと映す。頭での理解と、心での理解との隔たりとはこうも大きいものかと感じる次第だ。

とは言え、それはそれで人のありようというものだろう。論理的に考えれば分かりきっていることを、完璧に感情抜きに行動に移すことが可能ならば、そもそも人は悩みなどから自由になれるはずだ。

それでも、相変わらず苦悩し続けるし、人を見ても苦悩のない人はいないように見える。完璧になんかできっこないのだ。なぜなら、僕たちはなかなか感情から逃れることができない存在だからだ。

こんなときはどうすればいいのだろうか?

根本的な解決には至らなくとも、その時々の気持ちの不純物をサラッと洗い流すことはきっとできる。このnoteを書く営みもそのひとつだ。要するに、ストレス発散というやつ。

波打つ感情の、負の局面に立ち会う時。本来ならばその負の根本的原因を取り除くことが、最も良策であることは間違いない。先の話に紐づけるなら、「人に期待しない」ことこそ、ストレスの根本原因を取り除く行いだ。

だがしかし、言うのは簡単でありながら、それがなかなかできずにいる内は、負の感情を洗い流す術をいくつも自分に準備しておきたい。

根本的な解決にはならなくても、その時々のストレスを速やかに洗い流せるなら、それはそれで尊い生きるための技術と言うものだろう。

ということで、今回もまた書いた。オレが書く時は大抵、なんらかの発散の目的であることがほとんどだ。発散には書くことがとても役に立つ。読むのではなく、書く。理路整然となんかしてなくていい。とにかく書く。ざーっと書く。支離滅裂でいいから書く。

そうやって気持ちの掃除を続けていきながら、散らかりがちな自分の内側を保っていきたい。

あ〜、金麦飲みてぇなぁ