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熱伝導

煙草が吸えない

鮎川誠さんの訃報に声が出た。
自分でも想像していなかったほどくらった。
ついこの間の映画祭のあとに織田さんと一緒に行ったシナロケのライブの話をしたばかりだった。
開場は満員、盛り上がって酸欠状態。煙草に火がつかなかった。

僕のバンドでベースをやってくれていた森田農が誘ってくれた。
ジョンと呼んでいたあいつは鮎川さんの話を良くした。
ジョンももうこの世界のどこにもいない。
鮎川さんとジョンの顔が頭の中で交錯した。

昭和

昭和っぽいとか、そういう言葉を聞くことがある。
昭和生まれっていうのはハラスメントばかりだとか。
あれは勘違いなんだよなぁって思う。
確かにハラスメントはまだまだ残っていたけれど。
平成になってからこの世の中から急にハラスメント的なものがなくなったわけじゃない。

僕が中学生の頃にはすでに校則問題もあったし、いじめ問題も体罰問題も社会問題として取り上げられていた。体育会系の部活でも全然なかったわけじゃないけれど、すでに体罰のようなことを後輩に強いれば、皆に責められてダサいと言われてた。後輩にも君付けやさん付けで呼ぶような雰囲気もあった。
僕たちの世代も先輩たちにシラケ世代と言われていた。浪花節はダサいよねなんていう雰囲気もあったし、中性的なイメージが流行ったり、オシャレに気取っている方が新しいって思われていた。バンカラなんてダサすぎてほとんど化石に近かった。人に殴られたことのないやつの方が多いよ。全然。

熱くなるなよなんていう感じの中でも。
熱いやつはもちろんたくさんいた。
でも実はそれは今も変わらないんだと思う。
今の若い世代をシラケ世代だと思ってると痛い目を見る。

戦後世代が定年を迎えてからバランスが少し変わったかもしれないけれど。
マッチョな考えを少しずつ社会から排除したのは昭和世代だと思うよ。
なんか暴力的なイメージを勝手につけられても困る。
そうやって少しずつ前に進んで今がある。

過渡期

そういう意味では今現在も含めて過渡期なのだと思う。
まぁ、そもそも過渡期じゃない時期なんてないのかもしれないけれど。
だから昭和だ平成だって区切るからいけないんだ。
そんなの連続した何かでずっと変化してきたものなのだから。
昭和とひとくくりにされても戦前、戦後、学生運動の時代と僕らではまったく違うわけで、まして若い頃なんて同じように世の中に色々シラケてたんだけどなって思う。

そして熱さは時代じゃないよな。

冷めない熱

あのライブハウスを思い出す。
アンコールのsatisfaction。熱狂の渦。
アンプ直結のレスポール。
雪崩れ込んでいくレモンティー。
あの熱は今もライブハウスにあるはずだ。

あれは時代の熱でもない。
とうぜん昭和の熱でもない。
若者だけが持つ熱でもない。

浪花節だとか勧善懲悪だとかお涙頂戴だとか。
そういうものを僕も嫌っていた時期があった。
まぁ今でもそんなに得意でもないのだけれど、それでも許容しているしそれが持つエネルギーも理解できるようになった。
それはなんでなんだろう?と考えたら。
その時その場で生まれる熱じゃないと感じていたからだと思う。
瞬間瞬間、内側から湧いて出てくるもの以外はあまり信じられなかった。
共感して生まれるものもあるのだと気付いたのはだいぶ経ってからだ。

生きることは熱交換だ。
生きることに時代もクソもあるか。

あの時、鮎川さんは、シーナさんはいくつだったんだろう。
年齢なんか超越しちゃってたもんなぁ。

僕には冷めない熱があるか。
僕はその熱を作品に出来ているか。
僕は俳優たちの持つ熱をちゃんととらえているか。
時代だとか昭和だとか映画だとか舞台だとか年齢を超越しているか。
熱が伝わっているか。

それだけだ。
映画鑑賞後にその熱が残るかどうかだけだ。

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