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最終的に世間から置いていかれるけれど

かつて夢中になってみていたとある映画監督が今のイスラエル軍の慰問に行ったというニュースに、もう作品はみないとか、過去作品のDVDも捨てるだとかそういう辛辣なコメントが並んでいて複雑な気分になった。
最近もあの美形と話題になった俳優がイスラエルのことをいじるような笑いをやっただとか、映画の公式アカウントがおかしな画像にいいね!をしていただとか、そのたびに絶対みない!!というコメントが並ぶ。

気持ちはわかる。好きであれば好きであるほど裏切られた気持ちにもなるだろうし、がっかりしてしまうということはあるわけで。
それで今は気分が悪いからあまりみたくないとかも理解できる。
でも二度と観ないとか、過去作品も観ないとSNSでわざわざ発言することが僕にはちょっとわからない。
個人的な気分として観たくない以上の何かを発信しようとしている。
ガザの子供たちの映像をみれば理解できないし、なんでだよって悔しくなるけれど、でも僕はそれを他の人と共有したい感情だと思ったことがない。

ちょっとそれで僕が驚いたことがあってさ。
もしかしたら何か意図があって海外のニュースまで引っ張っているのかもしれないなと思ってスレッドをさらっと読んでみたら「日本の芸能人はもっと発言するべきだ」みたいなことも書いていてさ。
僕としてはそれがすごく矛盾に感じたのだけれど、なんか多分、そこには気付いていないんだなぁということに驚いた。

日本の芸能人は昔、「野球、政治、宗教」の発言はするなと教えられたそうだ。
理由は簡単でそこが相いれないだけでファンになってもらえないからなんだそうだ。
現実にファンクラブの人数がごっそり減ったりしたこともあったのかもしれない。
今は野球は自由に発言できるようになったけれど、今もその感じは続いている。
でもそれは禁止だとか強制されているわけではないんだと思う。
要するに、自分の考えと合わない人を排除するという思考回路が多くの日本人には当たり前のこととして無意識的にこびりついているからだ。

その映画監督は自分の信念に基づいて行動したはずだ。
それで失うファンがいることもわかっていただろう。
けれど恐らくは失うファンと、それを喝采するファンとでイーブンか、気にするほどの大きな影響がないんじゃないだろうか。
それすらも気にしていない可能性もあるけれど、海外の俳優が政治的立場を公表しているのはそれをしても大きなダメージがないからだというのは容易に想像がつく。

恐らく例えばアメリカでもアジアの監督の映画なんかみないとか、宗教的にこういう映画はみないだとか、この人種の音楽は聞かないとか、そういうことはあるだろうと思う。そんなの気にしないぜっていう人の方が多いって信じているけれどさ。
シンプルに多民族国家であり、宗教も多くあって、思想も様々にあるという背景があって、高齢者なんかは昔の感覚を引きずっていたり、地方によってはギャップもあるはずで、そういうものは今もあるものの最近はどこからがヘイトで何を表明すると恥ずかしいとかそういうことが一般化してきたってことなのだろうと思う。
だからちょっとコロナとかおかしなことが起きればアジアンヘイトが表面化してくるってことだろう。

でも日本は大多数が単一民族で、言語も一つだし、海に囲まれている。
島国であるし、村社会という背景もあったし、そこから生まれた社会だから、学校であるとかクラスであるとか、ウチとソトという考え方が無意識レベルまで浸透している。
非難する人がいればシーソーは一気に傾いて、支持する人が圧倒的に少人数になってしまうようなことがしばしば起きる。
最近は差別がなくなったなんて言うけれど、それは言葉だとか表面上の問題で、心の問題はいぜんとしてそのままになっているように感じる。
だから日本では偏った発言はとてもしにくくなる。
僕のような小さな存在はともかく、それこそスポンサーなんかがいる媒体に出演している人は日本にいる限りそんなに安直には発言しないだろう。
そのことで圧力が来るとかじゃなくて、シンプルに支持されなくなるからだ。
どんなに良い役者でも不倫をしたら嫌われるみたいな。それとこれとは別なはずなんだけどな。

でも個人レベルではどうなのよ?って思うの。
別に宗派の違う人だから友達にならないとかさ、政治的に偏ってるから話をしないだとかさ、嫌いな野球チームのファンだから無視するとかさあ、そんなのってある?いまどき?外国人とかでも仲良くなるよね、今。
むしろ、性格とかじゃない?合わないとかって。そいつのプロフィールで嫌いになることなんてほとんどないんだけどな。
いや、僕だけかもしれないんだけれど。周りをみてもそう思うんだよ。
なんで名前が有名なだけで排除とかそういう方向になるんだろう?って。
つまり実はその人のことが嫌いなわけじゃなくて、その人の影響力が自分の考えと違う影響を拡げることが厭なだけなんじゃないの?って思ってしまう。
そして自分の意見の支持者を集めて、大勢の意見にしたがる。
それってどうなんだよって。
そりゃ、誰も自由になんか発言しないよ。

だからどっちかであるべきだと思うのだよ。
誰でも自由に発言できるような社会にするのか。
自分の考えに合わないものは排除する社会にするのか。
まぁ、もう観ないって意見も自由な発言なのかもしれないというパラドクスが生まれちゃうんだけれどもさ。
非難するならそれは自由だけれど、排斥するのはどうなのかな。
村八分そのモノじゃん。
僕自身、大好きな映画監督だからその行動にはちょっとガッカリしたのだけれどさ。やりきれないモヤモヤがあるのだけれどさ。
でも映画を楽しんだ自分の過去まで含めて否定するっていうのはちょっとないかなぁ。

異分子を排斥するような日本人の村社会から続く同調圧力。
そういうものがとっても醜くて大嫌いだ。
相手を尊重して、芯を持っている日本人の気風は大好きなのに。
非難であれば自分の意見を堂々とするのはすごく良いと思うけど。
弱い者を叩くような誹謗中傷や分断は良くないと思う。
その違いぐらいは学ぶべきなんじゃないかなあ。

ガッカリはしたけれど映画作品とは僕は切り離して考えられるけどな。
良い映画はやっぱり良いし、面白い映画はやっぱり面白いよ。
あと自分と考えの違う人ってのは興味深いと思うよ。

亀をいじめる側か、竜宮城で異文化を体験する側かだ。
ま、太郎は最終的におじいちゃんになって世間の流れから外れるけどさ。


映画『演者』
企画 監督 脚本 小野寺隆一
音楽 吉田トオル
題字 豊田利晃

「嘘ばかりの世界」だ
  「ほんとう」はどこにある

【次回上映館】
未定

出演
藤井菜魚子 河原幸子 広田あきほ
中野圭 織田稚成 金子透
安藤聖 樋口真衣
大多和麦 西本早輝 小野寺隆一

撮影 橋本篤志 照明 鈴木馨悟
録音 高島良太 絵画 宮大也
スチール 砂田耕希
制作応援 素材提供 佐久間孝
製作・宣伝・配給 うずめき

【あらすじ】
昭和20年春、終戦直前のとある村。嶋田家に嫁いだ3人の女たち。
血の繋がらない義理の三姉妹は男たちが戦時不在の家を守り続けている。

家長であるはずの長男の嫁、智恵は気を病んでいた。
三男の嫁、恵美は義姉を気遣う日々を送っている。
次男の嫁、陽子は智恵がおかしくなったふりをしているのではと疑っていた。

やがて魔物が再び女たちの前に現れる。
世界は反転して、演技は見抜かれる。

◆終映◆
・2023年11月18日(土)~24日(金)
ユーロスペース(東京・渋谷)

◆終映(特別限定先行上映)◆
・2023年4月15日(土)16日(日)※限定2日間
シアターセブン(大阪・十三)
・2023年4月15日(土)18日(火)21日(金)※限定3日間
名古屋シネマテーク(愛知・名古屋今池)
・2023年3月25日(土)~31日(金) ※限定1週間
K'sシネマ (東京・新宿)

投げ銭は全て「演者」映画化計画に使用させていただきます。