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隔離されてるのはこっちの方だった

人をなぜ殺さないかというと”理由やルールに納得するから殺さない”のではなくて、”殺せないように育つから”である。
隔離された温室で、免疫のない脆弱な存在として育ちあがるのではなく、さまざま異質で多様なものに触れながら、試行錯誤してノイズに動じない免疫化された存在として育ちあがることが、流動性の高い成熟社会では必要。
嫌なことを排除していくことが必ずしも善ではない。嫌なおじさんと関わることも子供にとっては違う価値観に触れるチャンスなのだ。

前回の『なぜ人を殺してはいけないのか?』の流れで書いたもの。

この辺のブログはもともとレンタルブログで書いてたものを移したので、実際には2002年とか、そのくらいの時に書いたものだと思う。

20年近く前か。そりゃおじさんになってるわけだ。

おじさんにはおじさんなりの存在のしかたがあっていい。先の流れでいけば、嫌なおじさんにも嫌なおじさんなりの価値があるはずなのだ。子どもたちを「隔離された温室」育ちにしてはいけない。

ダイバーシティばんざい。

・・・・・

ところで、自分は少なくとも嫌なおじさんくらいには、なれてるだろうか。

そう考えてみると、そもそもそれ以前に若い人とほとんど接点がないことに気づく。

気がつけば隔離されて温室育ちになってるのはこっちの方だった。

むしろ、おじさん嫌いの若い人たちと関わることが、おじさんにとっては違う価値観に触れる数少ないチャンスなのだ。子どもたちガー!とか言ってる場合ではない。まず、自分から。なのでは。

いや、やばいね、おじさん。


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