逃れるための技術論

僕が興味を持ったのは著者がなぜ”造型論”を追い求めたのかである。

この記事を読む限り、著者が建築の最後の決め手が造形論だと考えているようには思えないけど、この”なぜ”がどうだったのか今は思い出せない。

僕自身、再現性を高めるというか、平均点を上げるために技術論のようなものを手に入れたいと思い続けてきたけど、今ではむしろ平均から逃れるために技術論が必要なのだと思うようになってきた。いや、同じことか。

この場合の技術論が何に対する技術かというと、結局のところ世界の捉え方、向き合い方、姿勢に対する技術なのだと思う。

いやいや、このままでは真面目な話になってしまうな。

ほとんどの人は普段の生活で、世界に対する姿勢なんてことは考えることはないと思うし、僕もないもんな。だいたいそんなこと関係なく生きてる。

と思ったけど、そんなことはないか。皆、世界との向き合い方を試行錯誤して、自分なりの技術として身につけてる。
時に人のそれが魅力的だったり、時に人のそれに救われたり、時に人のそれに惑わされたり。

ただ、ものをつくる場合、その姿勢・技術はどうしたってつくるものにも滲み出て、それを使う人の身近な環境の一つになってしまう。

それだけのことなんだけど、それが怖くて臆病になっちゃって、技術論なんかを求めちゃうんだよね。
要は、自分のことはさておいて、なんとかつくるものには世界とのよい向き合い方を匂わせたいんだよね。

まー、大人はそうやって背伸びしながら生きてるから大人なんだと思う。中身なんてびっくりするくらい変わらないもんね。


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