テーブルにつけないような居心地の悪さ
これもなんとなく借りた本。
『完全に私的な生活を送るということは、何よりもまず、真に人間的な生活に不可欠な物が「奪われている」deprivedということを意味する。』「人間の条件」ハンナ・アレント1994
『内奥の生活のもっとも大きな力、たとえば、魂の情熱、精神の思想、感覚の喜びのようなものでさえ、それらがいわば公的な現われに適合するように一つの形に転形され、非私人化され非個人化されない限りは、不確かで、影のような類の存在にすぎない。』(同上)
『世界の中に共生するというのは、本質的には、ちょうど、テーブルがその周りに座っている人々の真中に位置しているように、事物の世界がそれを共有している人々の真中にあることを意味する。つまり、世界は、すべての介在者と同じように、人々を結びつけると同時に分離させている。』 (同上)
この時はじめてアーレントに触れたように思うんだけど、ずっとひっかかっている。
建築はアレントの言う「テーブル」すなわち「世界」となれるのか。
われわれは何を『奪われている』のだろうか。
この辺は自分の中で一貫してるテーマなんだろうな。
小学生の時に新興住宅地に住む友達のできたての家に遊びに行ったことがあった。その時に感じた、テーブルにつけないような居心地の悪さ。
ごくごく個人的な経験に基づく感覚にすぎないと思いつつ、そのことをずっと考えている感じ。
自分の作る建物は、人に居場所と世界とのつながりを与えてくれているだろうか。テーブルにつけないような居心地の悪さをつくっちゃいないだろうか。
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