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神秘の都市岡山で我々は恐るべき桃太郎伝承の真実を知る!(弾丸旅行2日目③)

一人旅2日目の朝は神戸の史跡を慌ただしく巡ることで過ぎ去っていった。
ここから先は思いつきの旅だ。前日のホテルで急遽決めた次の目的地は岡山市。これで兵庫県ともお別れとなる。

岡山を選んだ理由は単純に行ったことがないからだ。というか俺の記憶では本州は姫路より西に行った記憶がない。自分の行動範囲の狭さに呆れる思いだが、俺は同時にこの旅程を楽観視していた。所詮隣の県だ、すぐに着くだろうと。大きな過ちだった。



未踏の地、岡山に降り立つ


俺は意気揚々と第二神明道路を西に向かった。
明石のマンション群に慄き、姫路城の標識に後ろ髪惹かれながら通り過ぎ、相生の辺りまで来るとすっかり俺の馴染みの田舎深い景色に変わっていた。
当初の俺の予定では昼過ぎまでにパパっと岡山観光を終え、遅めの昼食に笠岡ラーメンでも食べようと考えていた。

こんな距離をすぐに移動できるわけがない

だがそれはとんでもない間違いだった。県を跨いでの移動だ。ようやく岡山の標識が見えてきたとき、すでに午後一時を過ぎていた。何はともあれ初めて降り立った岡山の地。俺は最初の目的に急いだ。

岡山でまず向かったのが吉備津彦神社だ

吉備津彦神社。岡山市の中心地から少し離れた郊外にある神社だ。
神社の後背には吉備の中山と呼ばれる山が控える。こういう平地の中にこんもりとそびえる山がご神体として祀られるのは神社でよくあるパターンだ。この吉備の中山もその例で、吉備津彦神社のご神体(神道ではこういう神体を神奈備と言ったりする)として祀られている。

鳥居付近の池では亀が泳いでいた


吉備津彦神社は大規模な神社ではないが、鳥居周辺には池が広がり、長閑でなかなか趣がある。

本殿を望む


御祭神は大吉備津日子命。神社の名前でもある吉備津彦命その人だ。吉備津彦命は古事記や日本書紀に登場する人物であり、時の天皇である崇神天皇から各地方を征伐するように任じられた四道将軍の一人でもある。

ちなみに崇神天皇という人物は第十代にあたる天皇だが、色々あって存在が疑わしいとされるそれ以前の天皇(いわゆる欠史八代)と違い、歴史的に実在した可能性がある最初の天皇と言われ、この人こそが本当の初代天皇だとする説もあったりする。そんな神話や伝説から現実の歴史へと時代が移り変わる狭間を生きたのが吉備津彦命という訳だ。

吉備津彦命の足跡をたどる


実際のところ俺はこの時代に全く詳しくないから四道将軍の事も吉備津彦命の事もほとんど知らなかった。しかし次の目的地ではそんな無知な俺に対し恐るべき岡山真実が襲い掛かってくることになる。

吉備津彦神社の神奈備山である吉備の中山を山裾沿いにぐるっと回っていくと吉備津神社という名前の神社がある。俺は最初地図を見たとき、なんでこんな近くに別の神社があるのか、なんでこんな紛らわしい似た名前なのか不思議に思った。どうせすぐ近くなのだからと、折角なので寄ってみることにした。

吉備津彦神社からすぐのところに吉備津神社がある


吉備津神社は驚いたことにかなりしっかりした神社だった。いわゆる地域の神社ではない、観光スポットになりうる史跡を持つ神社だ。

境内図を見ただけでも結構な広さがあるとわかる


吉備津神社参道


参道の先、階段を上って本堂へ


なかなか風格のある門をくぐって中に入ると、俺はいきなり巫女さんに声をかけられた。あなた方は唐突に巫女さんから声をかけられた経験がお有りだろうか。恐らくないだろう。怪しい詐欺か何かかと疑うはずだ。俺も最初は何事かと身構えたが、吉備津神社について5分程度の案内をしてもらえるとのことだったので、ありがたくお願いすることにした。

吉備津神社の御祭神は吉備津彦神社と同じく大吉備津彦命だそうだ。なぜこんな近くに似た名前の別の神社があるのか気になって尋ねたところ、吉備津彦神社は吉備津神社から分祀されてできたとのことだった。

そもそもこの地は吉備国という一つの国だったが、それが備前・備中・備後と三つの国に分けられた時、吉備津神社は備中国一宮となり、備前国一宮として吉備津彦神社、備後国一宮として同じ名前の吉備津神社がそれぞれ分祀されたそうだ。

そういう訳で吉備津神社は三つの国の一宮の大元であり、吉備総鎮守と言われたりするなかなかスゴイ神社なのだ。その威容は巨大な本殿を見ればすぐ分かるだろう。比翼入母屋造と呼ばれる屋根が二つ並んだ形式が特徴的で、吉備津造とも言われる。

この特徴的な造りは吉備津神社だけしかないため、吉備津造とも言うらしい


圧倒されるような雄大な造りだ


ちなみに駐車場のトイレも比翼入母屋造だった。芸が細かい


そしてこの本殿から諸々の末社を繋ぐように400m弱の長さにもなる回廊が長々と結ばれている。

本殿と末社をつなぐ回廊


駆け出したくなる直線。実際はしゃいだキッズが走り回っていた


外から眺める回廊

そうして長い回廊を歩いていくと、その脇道に御釜殿と呼ばれる建物があった。

今明かされる桃太郎伝承の真実とは!?


岡山と言えば桃太郎。かの有名ゲーム桃太郎電鉄をやったことのある人間からしたら常識だ。実際に市内を廻れば桃太郎のキャラクターをいくつも見かけることとなる。

だが俺はなぜ岡山と言えば桃太郎なのか、その理由は知らなかった。せいぜい桃が名産なのかな?ぐらいに思っていたのだ。しかしそんな俺の浅はかな考えは、巫女さんが語る恐るべき桃太郎真実によって打ち砕かれることになる。

どうか読者諸氏もMRSモタロ・リアリティ・ショックを起こさないよう、くれぐれも注意して読んでいただきたい。


吉備津神社の御祭神は吉備津彦命だ。なぜこの人物が吉備の地で祀られることになったのか。その理由はこの地に伝わる鬼退治伝説による。

かつて吉備の地に温羅と呼ばれる鬼がいた。温羅の暴虐を恐れた人々は時の朝廷に救援を訴えた。こうして朝廷は温羅討伐を決定し、その将軍に選ばれたのが彦五十狭芹彦命ヒコイサセリヒコノミコト、のちの吉備津彦命だった。

さて吉備にやってきた吉備津彦命は吉備の中山に陣を布き、温羅と戦うがなかなか決着しない。ある時、吉備津彦命は鬼の城にいる温羅に向かって矢を射かけるが、同じく矢を放った温羅によって撃ち落とされてしまう。

吉備津彦命が矢を置いたと伝わる矢置岩


そこで一計を案じた吉備津彦命は剛力によって二矢を立ち続けに放った。油断していた温羅は先と同じく一矢を射返して撃ち落とすも、吉備津彦命の二矢が温羅の目を貫いた。傷を負った温羅は雉に姿を変えて逃げようとするが、吉備津彦命は鷹に姿を変えてこれを追いかける。焦った温羅は鯉に姿を変えて川に逃れるが、今度は鵜に姿を変えた吉備津彦命に追い詰められ、とうとう捕らえられる。

こうして首をはねられた温羅であったが、温羅の首は死してなお吠え続けた。吉備津彦命は部下の犬養武命に命じてその首を犬に食わせたが、骨となっても吠え止まない。とうとうその骨を地中深くに埋めた。その場所が今の吉備津神社の御釜殿であるとされる。御釜殿では今でも地中の温羅が起こす揺れによって吉凶を占う鳴釜神事という儀式が執り行われている。

逆光の御釜殿。内部は撮影禁止だった


以上が吉備津彦命の鬼退治伝説のあらましだ。
話の中に雉や犬が出てきたりと今の桃太郎の童話とのつながりも確かに感じられる。桃太郎のモチーフの一つであると言われても納得だ。

ちなみに境内には総理大臣だった犬養毅の像がある。犬養毅の祖先がこの伝承に登場した犬養武命だからだそうだ。意外なところで思ってもみない繋がりがあるのが歴史の面白いところだ。

聳え立つ犬養毅像


鬼退治伝説から、古代の吉備国を想う


温羅の正体については色々語られており、渡来人であったとか吉備のもともとの支配者だったとか様々な説がある。

日本の歴史は朝廷の歴史だ。常に朝廷が正当であり、地方の征服されたものの歴史が語られることは無い。古代の吉備地方は相当に大きな勢力を持っていたらしく、当時の大和朝廷からライバル視されていた、或いは別の王権が存在していたなどと言われたりもする。

こうした古代の吉備勢力が大和朝廷に征服される過程で生まれたのがこの温羅伝説であり、温羅とはかつての吉備の支配者の姿だという説は、確かに成程と思う所もある。

だがその説を信じるには一つの疑問が残る。この鬼退治伝説は朝廷の正式な歴史書である日本書紀には一切記録されていないのだ。朝廷の英雄が地方の民を苦しめる悪人を退治するという、征服を正当化するならばこれ以上ないよくできた話を、朝廷が記録しないとは考え難い。

なぜ鬼退治伝説が朝廷でなく吉備の地に残ったのか、温羅という鬼の正体は、そもそもこれほど立派な神社を有する吉備とはどういう国だったのか・・・。文献を読むだけでは解けない謎があるのが古代のロマン、そして歴史のロマンだろう。

吉備にはそんな古代日本のロマンが詰まっている。俺が吉備津神社に別れを告げて次に向かったのはそんな古代のロマンの象徴。造山古墳だ。

(つづく)


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