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源平合戦一ノ谷の古跡を歩く(弾丸旅行2日目②)


一ノ谷。神戸市街から西へ向かった先にその地はある。現在一ノ谷がある一帯は須磨区と呼ばれ、今では海水浴場などのレジャーで人気のスポットだ。そして歴史的にみると、一ノ谷のある須磨一帯はかつて朝廷貴族の流刑地であり、源氏物語の主人公光源氏が一時期身を置いた地としても有名だ。

多くの物語や和歌に詠まれたこの地が、壮絶な戦いの舞台になった。一ノ谷の戦いだ。



平家都を落ちはてぬ

時は平安時代末期。かつて都で栄華を誇った平家は東より迫りくる源氏の軍勢を前に京を捨てて西に逃れた。惨々たる逃避行の後、再び勢力を盛り返した平氏軍は福原…今の神戸に拠点を築き、京への帰還の時を窺っていた。

これを捨て置けない京の朝廷と鎌倉の源頼朝は、平氏を討つべく弟の源範頼・義経を福原へ差し向けた。平氏の軍勢は福原に本営を置き、東は生田川、西は一ノ谷を境とし、強固な防御陣を築きあげていた。

俺が適当に作った合戦図。こうしてみると結構広い範囲で戦っていたことがわかる

正面の生田口を攻めたのは源氏の本軍を率いる源範頼。平氏側もここが勝負所と心得て、一族きっての名将平知盛率いる主力軍が迎え撃つ。血で血を洗う激戦が始まった。源氏方は奮戦するも、平家の抵抗激しく陣地を突破することはできない。

一方そのころ別動隊を率いていた源義経は、険阻な山道を伝い、平家の西の要害一ノ谷の陣までたどり着いていた。一ノ谷の平氏軍が目と鼻の先まで迫ったところで、義経たちの前に現れたのは断崖絶壁の如き崖であった。これでは進めないと尻込みする諸将を前に、義経は率先して坂を駆け下り、一ノ谷の敵陣を奇襲。この有名な逆落としの成功によって一ノ谷の砦は陥落。一ノ谷の敗北を知った生田口の平氏本軍も浮足立ち、ついに敗走した。

敗れた平家方は辛うじて海に逃れ、ここに一ノ谷の戦いは源氏の勝利で終わった。


一ノ谷の古跡を偲ぶ

湊川公園の大楠公像に別れを告げた俺は国道2号線を西に走っていた。街中を抜け、左手に海が広がる気持ちいい景色が見えてくる。目的地は須磨浦公園だ。海沿いをしばらく走ると標識が見えてきた。

須磨浦公園から海を望む

須磨浦公園は東西に細長く続く遊歩道と、須磨浦山上遊園にのぼるロープウェイの駅がある公園だ。駐車場に車を止め、遊歩道を東に向かう。ロープウェイも魅力的だったが、今回は時間がないので見送ることにした。

源平合戦800年記念碑
ゴルフなどいけ好かない金持ちのスポーツだと思っていたが、こういう粋な事もしてくれるらしい


松原の中の遊歩道をしばらく歩く。実際に訪れてわかったことが一つある。神戸は元々山と海が近く坂の多い都市として有名だが、神戸市街から西に向かうにつれ山が海に迫ってきて、この須磨浦公園辺りまで来ると山はもう海のすぐそこだ。

遊歩道を歩く。すぐ後は山が迫っている


もし源氏方が西から福原を攻めようとしたなら、この狭い海辺を通らねばならない。平家側からするとまさに天然の要害だ。さらに敵の主力は東の生田口から来ると知って一ノ谷の平家軍はますます油断したのではないだろうか。

鎌倉幕府編纂の歴史書吾妻鏡によると、義経はわずか70騎余りの軍勢で一ノ谷を落としたとされる。にわかに信じがたい数字だが、実際にこの地形を目の当たりすると平家の油断と混乱も分かる気がした。

そんなことを考えながら遊歩道を東の端まで歩いていくと、小さな石碑が立てられているのが見える。

ポツンとそびえる石碑


源平の戦があったことを今に伝える石碑だ


「源平史蹟 戦の濱」と書かれた石碑以外、この地が源平両軍激戦の地であったことを示すものは何もない。だからこそ想像を働かせて、当時を偲ぶ。文字の中でしか知らない世界が一つ自分の中で確かな風景として刻まれた気がした。


いくさ敗れにければ…

来た道を戻り、駐車場に入る手前で公園を出て国道沿いを少し東に進む。そこにはひっそりと佇むように平敦盛の供養塔があった。

公園前の道を歩く。向こうに広い海が見える


平敦盛の名は知っている人も多いだろう。平家物語の語る敦盛の最期は国語の古文の教科書に出てくるほど有名だ。まあ覚えているのは授業中居眠りしていなかった人だけだろうが。

源氏方の武将熊谷直実は、一ノ谷の合戦の中で武功を上げようと名のある敵将を探していた。勝敗はすでに決し平家は敗走していく中、波打ち際を馬に乗り、沖の船に逃れようとしている騎馬武者を見つける。

その華麗な鎧から敵の大将に違いないと考えた直実は「敵に背を向けるとは卑怯だ。戻りなされ」と扇を振って呼びかけた。これに応じて引き返した敵将だったが、勇士と称えられる直実の敵ではなく、組み落とされてまさに首を切ろうとその兜を押し上げたところで直実の手が止まった。

兜の下の素顔を見るとまだ十六、七ばかりになる少年で、思わず我が子を思い出した直実は困惑し、「お名乗り下さい。お助け申そう」と声をかける。
聞かれた若武者は「名乗らずとも首を取って人に聞け。見知った者がいるだろう」と答え、その潔さに感動した直実は同じ年頃の子を持つ父として何とか命を助けたいとますます葛藤する。

しかし自分の背後に源氏の軍勢が迫っていると気づいた直実は、他の者に討たせるよりはせめて自分の手でと、泣く泣くその首を落とした。

直実は武士として生きる我が身のつらさを嘆くとともに、その亡骸の腰にさした笛を見て平家の公達の風流心に感動する。そしてこの敵将が生年十七になる平敦盛だと知り、直実の現世を厭い出家を願う心は強くなった。

以上が平家物語の中でもとくに有名な敦盛最期の場面だ。その悲劇的な最期から、敦盛の名は後世まで絶えることなく残り続ける。

その名を今に留める敦盛塚


この塚もそんな敦盛の伝説を物語るものの一つだろう。今から800年前、確かにこの地で散っていった敦盛の名を現在に伝えている。

敦盛塚から道路を挟んだ向こうにある海を見ながら思いをはせる。敦盛の目に最後に映った景色もやはりこの海なのだろうか。道路の向こうに果てしなく広がる海は太陽の照り返しを受けてキラキラと光っていた。思うに敦盛が見た最後の景色も美しかったに違いない。

(つづく)


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