見出し画像

家族とポリス / 「人間の条件」(ハンナ・アレント)をド素人が読み進める(7)【第2章-5】

前回



「家族的領域」と「政治的領域」の意外な起源


 前回、「社会的領域」と「政治的領域」を対比した。
 前政治的な「家族的領域」から派生したポリスが「政治的領域」として生まれ、それからしばらくして「社会的領域」が誕生したという経過だ。

 なお、その中間の私的なものとも公的なものとも言い切れない「社会的領域」というのは、実は、古代にはなく、「社会的領域」が明確に誕生したのは近代以降とアーレントは言っている。

 ここでは、まず、ギリシャの時代にさかのぼり、「家族的領域」と「政治的領域」の関係を見る。

 ギリシャの時代は、「家族」から派生する形で「ポリス」が生まれた。


 その起源を、本章では辿る。ちょっと現代のイメージとは違う意外な感じかもしれない


 人間の起源を考えてみる。
 人間の最初の必要性は、生存のための必要性である。

 「家族での共同生活」は、人間が種を保存し生命を維持するために必要な行動であった。
 とにかく、生きるために必要だから、家族という集まりにして共に生活することが必要であった。

 家族という自然共同体は、必要から生まれた。家族の中で行われる行動は、生きるために必要かどうかという観点によって決定される。
 家族の中には、支配者と被支配者が存在する。欲求と必要によって駆り立てられ、そのためには暴力は行使されることも当然ある。
 ゆえに、家族的領域の中には本質的な自由はない。とにかく生きるための必要が先に来るということである。

 これに対比して、生まれたのが「ポリス」である。
 ポリスは自由の領域である。この自由は、前回も述べたとおり、今の一般的なイメージよりだいぶピュアな自由だと思う。
 「ポリス」では、言論と活動だけによって、政治的活動が営まれる。
 支配・被支配の関係はない。他人に命令に従属したり、自分が命令をするという関係もない。
 ポリスの構成員が、平等に自由な言論と活動を行い、政治的領域を構成する。

 なお、家族的領域に対する政治的領域(ポリス)は理想的な領域に見える。しかし、この政治的領域は、奴隷の存在によって成り立っていることは無視できない。家族の代表者が、家族のことはとりあえず横に置いて、ポリスに参加することで、ポリスの構成員は、家族的領域のことを気にせずに、政治的に自由な言論や活動にいそしむことができたのである。
 このことは注意しておきたいと思う。

 というわけで、「家族的領域」が先で、「前政治的」なものであったが、これに対して、ポリスが生まれ、「政治的領域」が誕生することになった。

 ポリスの「政治的領域」は、言論と活動によってのみ構成される自由な領域である。欲求や必要によって駆り立てられ、支配と暴力がはびこる「家族的領域」とは、明確に区別される。
 すなわち、古代ギリシャにおいて、「私的領域」と「公的領域」は明確に区別されている。

 このアーレントが強調する「明確に区別」についてもう少し考えてみたい。


 家族的領域と政治的領域の間の「深淵」


 アーレントは、古代ギリシャにおいて、「家族的領域」と「政治的領域」の間に重大な深淵があるという。

 少し具体的に考えてみたいと思う。

 古代ギリシャにおいて、家族的領域では、家長の者(基本的に男性)とその血縁者がいる。この家族の基本的な構成員は今もそうかわらない。

 仮で、この家長をギリタン、ギリタンの妻をギリツマー、ギリタンの子をギリコと呼ぶことにする。

 このギリタン、ギリツマー、ギリコの関係は、個体の保存と種の生存のための欲求や必要に駆りたてられて、形成されたものである。

 こんなことを言うと怒られるかもしれないが、個体の保存が男の任務であり、種の生存が女の任務であった。

 この源泉は生きるための生命そのものである。とにかく生きるのが最優先だから、暴力や支配がはびこる。

 一方、古代ギリシャにおいて都市国家が成立し、ポリスが誕生した。

 家長であるギリタンは、この都市国家ポリスに憧れ、この家族的領域を飛び出し、ポリスの自由な世界、政治的領域に足を踏み入れることを決意する。

 ポリスに入ったギリタンは、同じくポリスに入ったギリタリタンと全く対等な立場で日々議論を交わし、政治的活動をして過ごす。

 これは何を意味するか。

 ギリタンは、ポリスに入ろうとするとき、家族的領域の生命のための必要・必然を乗り越えなければ、ポリスに入ることができない。

 すなわち、ポリスに入るギリタンに生命の保証はない。
 というか、生命に対する愛着を持つことは、自由の妨げであり、奴隷的な考えということになる。

 生命維持のための行為は、もっぱら家族的領域の話でありそんな野蛮な考えは捨てなければ、ポリスに入り、高貴な「善き生活」をすることはできない。


 つまり、ポリスに入るには、生命を賭ける勇気が必要である。だから、ポリスでは勇気が第一の徳とされている。
 繰り返しになってしまうが、ポリスの領域では、言論と活動のみがすべてであり、生命の必要のための行為は政治的領域の構成要素ではない。
 だからこそ、ポリスでは、家族的領域の生命の必要性に対して、そこからの自由と平等が保障されているのである。
 つまり、生きるための支配や不平等は家族的領域にすべて置き去り、政治的領域に持ち込んではならない。

 なんてストイックな自由なのだろうか。

 この家長ギリタンが、家族からポリスに入るための並大抵ではない差の大きさというか、厳然たる区別が、アーレントの言う「家族的領域」と「政治的領域」の間にある重大な深淵ではないかと思う。

 現代において、この深淵は、忘れ去られているという。
 確かに、政治をするために生命を賭けることはたぶんない。また、現代の政治的領域の中にヒエラルキーはありそうである。どちらかというと、今は、私的領域のほうが自由で、公的領域のほうが不自由なイメージがある。

 しかし、政治的領域において、政治活動者に本来的な自由が保障されていなければ、健全な政治活動を行うことはできないのは、現代だって同じである。

 その自由とは、言論と活動だけが物事を決定する世界。

 とてもピュアで理想的な公的領域に見える。しかし、一方で当時大半を占めた私的領域では、その中で暴力と支配・被支配が蔓延っていたことも忘れてはならないように思う。





この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?