<活動的生活>と<観照的生活>/「人間の条件」(ハンナ・アレント)をド素人が読み進める④【第1章-2】
前回
<活動的生活>の位置づけ
本節では、<活動的生活>という用語について説明。
どうも、歴史的背景があるようで、話せば長くなりそうな感じである。
この説明でアーレントは何をしているのか。
私は、この節も前節と同様に、アーレントがこれから何を中心に論じるのか、あるいは何を論じないのかを明らかにする作業をしているだけなのではないかと思う。
前回に続き、丁寧に議論の射程を明らかにしているんじゃないかと思う。
たぶん、アーレントは、人間の諸条件のヒエラルキーを意識している。
そして、このヒエラルキーのどの区分がポイントで、どういう経過をたどってヒエラルキーが変遷してきたのかをこのあと論じようとしている。
それに到達するために、「今論じているのはこのことじゃないよ」というのを、あらかじめ注意しているのではないか。
さて、<活動的生活>の位置付けを明らかにするためには、それと対比される概念を持ち出すのが有効である。
ここでは、活動的生活と対比される概念として、観照的生活があげられている
動と静である。
観照的生活は、絶対的な静である。真理にたどり着くには絶対的な静に到達しなければならない。哲学者の世界のようなイメージかな。
観照的生活は、アリストテレスの時代には自由な生活様式の中の理想形態であって、アウグスティヌスの時代(中世)には、ついに唯一の自由な生活様式になったという。
なお、ここでいう自由な生活様式とは、「必要でもなければ単に有益でさえないようなもの」に関連している様式とされている。普通の自由のイメージよりもガチな(笑)自由だと思う。
それ自体「必要もないし、意味もないのであるから」、まあ間違いなく「自由」な生活様式である(笑)
ここまででアーレントの見ているヒエラルキーを簡単に整理すると、
観照的生活
活動的生活
ー労働
ー仕事
ー活動
ということになる。
観照的生活は、活動的生活(労働、仕事、活動)とは、「ちょっとレベルが違う感じ」がする。
活動的生活と観照的生活の関係は、動と静である。
アーレントは、戦争と平和の関係にも似ているという。この例えが適切なのかわからないが、相当レベルが違う感じを漂わせる。
この伝統的ヒエラルキーにおける観照の圧倒的重みのために、<活動的生活>そのものの内部の区別が曖昧になったとアーレントはいう。
スーパーサイヤ人が凄すぎて、ピッコロと天津飯とクリリンの区別が曖昧になった感じだろうか。
というわけで、ここでとりあえず言いたいのは、アーレントが着目したいのが<観照的生活>よりも<活動的生活>であること、今まで真理を求めていた哲学者たちは、前者を論じようとしたことが多いけど、今回は基本そういうわけじゃないから気を付けてねということなのではないかと思った。
伝統的ヒエラルキー
古代ギリシャ、中世ときて、最後にマルクスとニーチェがこの伝統ヒエラルキーの順序を転倒したとアーレントはいう。
でも、実は、マルクス、ニーチェの「転倒」は伝統的なヒエラルキーの枠組みを本質的に変化させたわけではないともいう。
何やら含みがある言い方である。
これは、マルクス・ニーチェが転倒しきれなかったことに対するフリなのでしょうか(笑)。
続きが楽しみです。
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