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29歳6.30の日記「慣れ」

今日も、
仕事していた。

お得意さんの屋上に生えた木や草の刈取り。
普段上らない場所。
眺めも良く、海が見えた。

草を刈りながら、
考え事していた。

「「場数を踏む」ことができるのは、
慣れないでいる間だけだなあ」ってこと。


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慣れて、「こういうもの」「こんなもの」
と思ってするようになった途端、
それは経験ではなくて
ただの作業になる。
何も深まらなくなる。
記憶にもとどまらない。

恋愛だって、友人との関係だって、
慣れてしまったら、
経験の数には入らない。

10年付き合った、うちの
慣れてない期間だけが経験だ。
10人付き合った、うちの
慣れずに付き合えた人数だけが経験。

だからまあ、
数なんて当てにならない、と思う。
経験について考えるならば。

「慣れたこと」は、深まらないのだから。

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そう思っていたのは、きっと
今日一緒にはたらいていた人が、
島の植物について、動物について、
目を輝かせて語っていたので。

尽きぬ興味の源泉には、「慣れていないこと」があるなあ、
と直感したのだ。
それだから、遠くにも行ける。

歩くことに飽きてしまったら
旅は終わる。


慣れていないことをすることって、
していることに対して慣れないことって、
慣れずに続けることって、

実はすごいことだったんだな。

なにか新しげな、活動をしたり
初対面の人達と話をしたり
することはあっても、
使い慣れた頭の回路しか使わなければ、
それは結局慣れたことの繰り返し。

「慣れないでいる間だけ、
場数を踏むことができる。」

場数を踏むには、経験をするには、
条件があるんだった、と気づいた今日。

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書くことは、
そういう意味で、

慣れきって経験できなくなることを
防ぐ効果があるのかもしれない。

例えば、日記に書いた出来ごとは、
通り一遍のこと、ではなくなる。
その日その日のごはん。
その日その日の会話になる。

「当たり前の毎日」から
「当たり前」を剥がすことをしている。

だから、
少なくとも頭の中でだけでも
書いていないと、
日々は経験されないのかもしれない。

だから、絵を描くときも、
表現して、それを人に見てもらうというよりは、
自分が見る、見直す
ことに意味があるのかもしれない。

主に視覚に関して、
慣れて、見ることが出来なくなった対象から
慣れのヴェールを剥がすことによって。

29.6.30,Mizuki

絵を描くのは楽しいですが、 やる気になるのは難しいです。 書くことも。 あなたが読んで、見てくださることが 背中を押してくれています。 いつもありがとう。