信じてみる、ということ
だんだん大人になっていくにつれて、『とりあえず一回信じてみる』ということが難しくなったな、と感じます。
なんとなく変に大人になってしまった部分があるから、自分の価値観とか常識が強い基準になってしまっているのです。おすすめされた物とか、教えてもらう事が、素直にそのまま自分の中に取り入れられないことがたまにあります。詳しく知る前から少し否定的な立場から物事を疑って見てしまう感じ。
経験値が増えていくと、未経験のことや新しく知ることでも、自分の経験の中で近いものに結びつけて、勝手に理解した気になってしゃべるようになる。私のよくないところです。
でも本当は、新しいことを教えてもらった時とか出会った時にその場でジャッジするのではなくて、試してみた上で物を言うようにしなくちゃいけないなと思うのです。
人の数だけ人生があって、人の数だけその人なりの成功とか好きの基準がある。自分が好きな物を相手も好きだとは限らないし、でも、逆もまた然りで、嫌いだとも限らない。
何を信じたらいいかわからない世の中だから、自分の好きなものとか、自分が正しいと思ったことを守り続けるのはすごく大切だなと思います。
でも、何を信じたらいいかわからないからこそ、なんとなく上辺だけを掬って勝手に察するのではなく、なんでも食べてみる。そしてその、「やってみる」という、一見めんどくさいと思ってしまうような過程を踏んだ人だけが、それに対しての自分の意見を持ったり価値基準を持っていいような気がします。自分を正当化するために何かを頭から否定するのではなく、とりあえずやってみることってすごく大切なこと。
そしてこの「やってみる」ことにはコツがあると思っています。
それは、本気で信じてみることです。
これが私にはとっても難しい。色んなものを受け入れたいという気持ちがあるので、少しの不信感を抱きつつも、とりあえず形だけ自分の中に取り込もうとします。でも、そこに「本当に?」という気持ちが少しあって。そうやって疑いながらやったものは、結局なんの結果も、なんの効果も、楽しさも得られない。
やるからには、本気で意味を持たせる気持ちでやる。たいていのことは、そうすれば楽しくなる気がします。本気で信じてやってみて、それでもダメなものは、やっと自分の中で「意味のないこと」に振り分けていいような感じがします。
人からもらうアドバイスも、本気でそれに応えよう、と思わないと、良くなるものも良くならない。
色んな勉強法だって、一回本気でやってみないとそれが本当に良いかわからない。新しいアクティビティだって、楽しくないかもしれないと思いながら形だけやっていても、本当の意味の楽しさや達成感は得られない。
本気になること、信じること。全てはそれが前提だと思ったりします。言い換えれば、"夢中になること"でもあるかも。
高校生や中学生の時は無意識に出来ていたことだと思う。それが大人になって、どんどん色んな経験が増えていくと難しい。いつもあたらしいきもちで本気になることができる筋肉みたいなものって、意識しないと衰えていっちゃうんじゃないかな。
昔は、出来ないことが嬉しくて、知らないことがいっぱいあるのが嬉しくて、それがだんだん自分のものになっていく過程を楽しんでいたと思う。
それがいつからか、出来ないことが苦しくなってしまう。周りの出来る人と比べたりすると、新しいことに取り組むのがしんどくなったりする。
でも本当は、"出来ない"を"可能性"だと置き換えるべきなんだろうと思います。そうやって楽しめる人、喜んで初心者になれる人こそ、素敵な大人なんだろうな、と思います。目指したい。
音大にいて、「音楽を仕事にしたい!」と思えば思うほど"出来ない"が苦しくなるし、なんの仕事にしろ、そこに"競争"があって初めて実力を証明することができるのは事実だけれど、学びは本来は好奇心とか、探究心とかから来るもので、心を豊かにするためにある、ということを忘れてはいけないな、と思います。
そういう意味で、色んな物をただ浴びているだけじゃ、やっぱりそれを本当の意味で楽しいとは感じられなくなっちゃうような気がします。意識的になんでもかんでも「面白い!」って思える自分でいたいし、「めんどくさい」の先にある景色にロマンを感じられる自分でいたい。
一回信じて楽しんでみる、本気を出してみる、が出来る人になりたいな、と思いました。
今日も、おだやかな気持ちでねむれますように。
また明日も、のびのび生きるぞ!
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