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『夜空に絵本をひらいて』サンプル

『夜空に絵本をひらいて』というタイトルのエッセイ誌を発行しました。絵本と児童書あわせて21冊の本に捧げる、書評のような感想のような思い出語りのような散文を21編のせています。本記事では、①1冊目『わたしようちえんにいくの』と②20冊目『おひめさまがっこうへいく』にまつわるエッセイをサンプルとして掲載いたします。(偶然にも「社会生活はつらいよ話」がふたつになりましたが、本編ではもう少し幅広くいろいろなことを書いています)

ーーーーーーー以下本文①ーーーーーーーーー

『わたしようちえんにいくの』文化出版局 (1993年)
文 ローレンス・アンホールト  絵 キャスリーン・アンホールト 
訳 角野栄子 

幼いころから、社会生活によい思い出がない。3歳のときに入園した保育園では毎日のように泣き叫んだ。枯れることもなく涙を流し続けた理由は、たとえば母と離れること、家から出ること、先生の口調が子供だましなことが嫌だったからだ。同じクラスのわがままな男の子に殴られることも苦痛だった。当時の日常をあそびで吹き込んだカセットテープには、「○○くんに手のバットで殴られます」というわたしの声が残っていて、そんなところで隠喩のセンスを発揮するなよ、と思いながらも、精いっぱいすぎる当時の自分をとても悲しく思ってしまう。結局保育園は一週間でやめてしまって、わたしは4歳から、別の幼稚園に通うことになった。
『わたしようちえんにいくの』は、そんな保育園挫折経験の直後に出会った絵本だ。主人公のアンナが幼稚園にはじめて行き、友達をつくって帰るまでの一日を描いた単純なストーリーだけれど、当時は「自分と同じ境遇の人間が本の中にいる!!」ととても驚いたものだった。たとえばアンナが幼稚園に行く準備をすすめるシーン。「ひとりで くつ はけなかったら どうしよう」などとささいな不安を抱くアンナ。わかるよ。わたしは幼稚園バスの切符の買い方がわからないことがこわくて、どうしようもなかった。母が「お金は前もって全部払ってあるよ」と言っていたけれど、そんなバス今まで一度も見たことない、きっとわたしは切符を持っていないせいで運転手さんに怒られる運命なんだ、と布団にくるまってずっと溜息をついていた。
絵本の中の幼稚園で、アンナはトムという男の子に話しかけられる。「ねえ、アンナ。くまちゃんたち ないてる。どうしよう」「ママが いないから さびしいのよ」。「ママ」がいなくて寂しかったのはアンナ自身のはずだったのに、こうして「くま」のぬいぐるみを使ったままごとが始まると、アンナはそれどころじゃなくなる。「くまちゃん」を泣き止ませるために、トムと奔走(?)しているうちに、二人は仲良しになっていく。
わたしは幼稚園でも、泣くのをやめなかった。『わたしようちえんにいくの』の絵本どおりにはいかない。保育園時代は泣き叫んでいたけれど、わたしはしくしく静かに泣くことを覚えた。絵本には、「つみき」「えのぐ」「うさちゃん」「じてんしゃ」「おいけ」、たくさんの魅力的なものがつぎつぎ出てくる。実際の幼稚園でもそれらはあっただろうと思うけれど、わたしの目にはとまらなかった。
そんなわたしを見て、幼稚園の先生がある遊びに誘ってくれた。それは、園庭にあるプラスチックのやわらかいベンチで、絵本を読むことだった。読み聞かせをきくのはもとから好きだった。物語の世界に夢中になっている間だけは、泣くことも忘れられる。それは、苦し紛れの現実逃避だったかもしれないけれど、わたしにとってはすごく大切な時間だった。いつしか、「おそとでえほん」は、わたしの幼稚園でのお決まりのあそびになった。
『わたしようちえんにいくの』に出てくる登場人物を改めて見ると、いつもみんな口角が上がっていることがわかる。悲しそうな場面で、おちょぼ口をした無表情をしているときもあるけれど、絶対に泣かないし、次のページでは笑っている。絵本とわたし、違うところもあるけれど、今ではその違いにすらしみじみ力づけられもする。
本書は、わたしを楽しませたり、ときにはわたしを救ってきたあらゆる絵本や児童書たちを紹介するエッセイ集だ。どれも名著ばかりなので、気になったものがあればぜひ、手に取ってみてほしい。
ちなみに、保育園にいた「手のバット」の持ち主とは小学校で再会し、水飲み場の列で「週刊ストーリーランド」(当時のテレビ番組)の話で盛り上がり、楽しく会話することになる。そんな昔の思い出さえも、幼稚園時代のわたしはまだ知らないのだった。

ーーーー以下本文②ーーーーーーー

『おひめさま がっこうへいく』ポプラ社 (1986年)
作 まだらめ三保  絵 国井節

「学校嫌いの主人公が頑張って学校へ行くストーリー」の本を見ると、泣きそうになる。たとえば、教室の隣の席の「ますだくん」の横暴に苦悩する女の子が主人公の『となりのせきのますだくん』(作・絵 武田美穂)なんかを読んだら、ぎゅうっと悲しい思いが心の底に溜まり、他人事ではいられなくなる。「学校」というものはもう十年以上前に卒業したはずのわたしなのに、学校の嫌さ、こわさ、悲しさをぶり返してしまうのだ。「学校嫌いの主人公が頑張って学校へ行くストーリー」の本に救われていた自分がいたことは否定できないけれど、それらの本は同時に、「学校には頑張って行かないといけない」というプレッシャーを、わたしに与えていたように思う。
小学校の何が嫌いかって、すべてが嫌いだった。理不尽な抑圧と暴力にまみれたこの世というものが、ついに自分の足元にまで波を寄せてきたということを受け入れられず、ずっと苦しかった。そんな小学一年生のとき、わたしがよだれを垂らすほど夢中になって読んだ本が『おひめさま がっこうへいく』だった。この本に出会ったことは忘れもしない。学校の図書室で読んだのだけれど、当時の自分にはあまりに面白すぎた。家の階段の下に座って、出かけようとしていた母を引きとめながら、内容を全部口頭で伝えようとした記憶がある。あの時の玄関の薄暗さと心臓の高鳴りを、一緒に思い出す。
『おひめさま がっこうへいく』は、主人公のおひめさまが学校をやめる話だ。湖にぽつんと浮かぶ小島にある小さな学校に入学したおひめさまは、「天然パーマ禁止」「くしゃみを5回するのは禁止」「先生が答えられない質問をするのは禁止」といったあらゆる決まりをもとに毎日のように先生から叱られることになる。しかも、おばあさん先生たちの謎のはからいにより、給食は豆腐やお粥といった柔らかいものばかり。「おひめさまは、かたやきせんべいを ばりんと かみたく なりました。くるくるの かみのけを、もっと くるくるに したくなりました。」――そんなおひめさまは策略を立て、思いがけないある方法で学校から逃げ出すのだ。
いいなあ、と当時のわたしは思った。おひめさまが学校を無事逃げ出せたからではない。おひめさまが学校を逃げ出しても「おひめさま」だったからだ。何をもってして「おひめさま」を自称しているのか曖昧な、この本の幻想的「おひめさま」は、今思うと、自己肯定感の比喩であるようにも思える。わたしは、学校をやめたら自分の人生が転落するかもしれない、と思って(もちろんそんなことは絶対にないのに、子どもの頭にそう思わせる何かが世間にあった)、ついぞやめられなかった。もしかしたらこの本は、「学校をやめても、あなたはすてきなあなた」と言ってくれていたのかもしれない。「理不尽からは逃げ出す権利がある」と訴えてくれていたのかもしれない。けれどわたしは、結局、こんな面白い本がある図書室のある小学校に、六年間行ったのだった。でもそれも、大人の手の内にはまっていただけかもしれない。
今ではわたしも大人だ。嫌なことをじっとこらえるだけでなく、逃げ出すことも覚えた。けれど大丈夫。逃げ出すわたしは、いつもおひめさまだ。ドレスをむん!とたくしあげて、「ぺくんぺくん」と足音を立てながら、揚々と歩いてみせるのだ。

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