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「自分だったら生きたいとは思わない」の深層

老人健診で病院に行く。自宅から歩いて5分ばかりのところにある中規模の病院である。
 相変わらず地域の老人が多い。長椅子に座って順番を待っていると、すぐ前の椅子に高齢の老夫人がやって来た。一人では歩けないようだ。背中を丸めてヨタヨタとすり足をしている老婆の腕を、しっかりと支えている息子らしき男性がいた。その男性は頭も白く70歳位に見えた。長い人生を歩いた年老いた母親を、すでに初老になった息子がやさしく手をつなぐ姿を見て、ほほえましい気持ちになった。しかし同時に、近い将来の自分の姿を重ねると複雑な心境である。
 ついこの間までこのような情景を見ると、「自分だったら生きたいとは思わない」と心の中でつぶやいていた。しかし、この言葉を発すると、それはまさにヘイトクライムであるという文言を読んだ。(誰の文か忘れてしまった。私も記憶の薄れる年寄りです)
 SNS上などで「自分がそうなったら死ぬ」なんて安易に書き込みをしたならば、「あなたの状態が死ぬほどイヤです」と宣言しているのと同じである、という。たしかに、自分の中では、その人を否定することになり、その人の存在を嫌悪することになる。
 人はそれぞれ生まれた環境、生い立ちの中で必死に生きているのだから、短絡的に決めつけることはできないだろう。もっと愛と寛容を持って生きていこう。余生は短いが・・・。
 
<二度とない人生だから 
一輪の花にも 無限の愛を 
そそいでゆこう
一羽の鳥の声にも 無心の耳を 
かたむけてゆこう

二度とない人生だから
つゆくさのつゆにも
めぐりあいのふしぎと思い
足をとどめて みつめてゆこう>
     坂村真民 詩