見出し画像

萩尾望都と雰囲気マンガと森薫

萩尾さんは雰囲気マンガに徹していたほうが良かった、というのが私の持論なのですが、雰囲気マンガと言えば、森薫さんも外せません
(以下、「エマ」のネタバレ全開なので、未読の方はお読みにならないほうがいいかと思います)

私は森薫さんが「エマ」を連載していた頃から注目してました。というのも、イギリスの作家ジェイン・オースティンの小説で「エマ」というタイトルの作品があるのですが、この作品を、同作家の「高慢と偏見」より完成度の高い、洗練された凄い小説だと思ってるんです。
舞台は一つの村、登場人物も限られていますが、人物たちに実にリアリティがあって、その行動に微塵も矛盾がないんですよ。面白いかどうかは別として(私にとってはこの上なく面白いんですが)、非の打ちどころのない名作でしよう。
とくに秀逸なのがラストの二人の会話です。双方が誤解しあっていることが、読者には手に取るように理解でき、そこがとても可笑しいんです。
200年以上も前に、よくまあ、こんな芸の細かいユーモアと皮肉にあふれた描写を考えたものだと、手放しで絶賛してしまいます

そういうわけで、書店で平積みになっている森薫さんの「エマ」を見つけた時、ああ、この作者もオースティンの「エマ」が好きなんだろうか?と、発売されていた3巻までをまとめて購入しました

ところが、読んでみると、オースティンの「エマ」とは似ても似つかないものでした。インドの王子様が象に乗ってロンドンの街を走る……という荒唐無稽なシーンが出てくる話だったのです。一巻の帯には「19世紀末 ロンドンの空気を漫画で再現!」と書いてあったのですけどね。当然、私の趣味ではなかったのですが、それでも「エマ」はこの当初のファンタジー路線で突き進めば良かったのに、途中からシリアス寄りに路線を変更した点はつくづく失敗だったと思います

イギリスヴィクトリア朝のジェントリ階級の紳士がメイドに恋をしたというストーリーなのですが、男主人公のウィリアム・ジョーンズという人物が、ヘタレなんて可愛いもんじゃなく、ひたすら自分に甘い坊ちゃんなんですよ

エマに失恋したと思い込み、自暴自棄になって、自分を一途に恋する令嬢エレノアにプロポーズしたあげく、その婚約発表パーティにエマが偶然現れ、自分を想っているとわかると、婚約者のエレノアそっちのけで再びエマを追い求める。
自分の利益になることには、夜中に機関車を走らせたりと、裕福なジェントリであることをフル活用するくせに、利益にならないことは「ただ守る為だけに守る伝統は僕は嫌いです」(メイドとジェントリの禁じられた恋のことを言ってるんでしょう)などと偉そうに語る。
「階級差を超えて……」というテーマならそれを言っちゃダメでしょうという「エマは普通のメイドとは違います」発言など、彼の「普通のメイド」への本音が透けて見え、ここまで不愉快な主人公も珍しいほどです

ウィリアムの母親のオーレリアも酷いです。社交界が嫌いで心を病んで?まだ幼い子を含む五人の子供たちを置いて田舎にひきこもるのですが、ジョーンズ家の女主人の役は長女に押し付けっぱなし、自分は田舎で偶然エマに出会って、長男ウィリアムの婚約パーティにエマを同伴、息子とエマが恋仲だと知ると、エマの応援に回るのですが、そんなことよりも、婚約破棄されるエレノアや自分の幼い息子や娘の心情にもっと関心を持つべきでは?
大体、自分の息子の婚約パーティなのに「家族に会うにもいろいろあって ちょっと気が重かったのよね」じゃないでしょ?本来自分が女主人として切り盛りすべきなのに、この人には罪悪感というものがないんだろうか?
オーレリアが作中で「わがままで困った人物」として描かれているなら、構わないのですが、「常識に縛られない自由で素敵な奥様」として描かれているのがなんとも……。

ウィリアムもオーレリアも、なぜここまで支離滅裂なキャラになってしまったか?それはひとえに「メイドがジェントリと結婚して奥様になるエンド」を作者が熱望したからでしょう。すべてはそのゴールありきで進みます。

本来、ウィル・エマが戦う相手はロンドン社交界もしくは、ウィリアムの父親であるはずなのに、そういった描写を描くと「上流奥様エンド」からますます遠ざかってしまいます。なぜなら、そうなったらウィリアムは勘当上等でジョーンズ家を出てしまうから。
そこでエレノアの父親「子爵」の存在が必要となるのです。エレノアとの婚約はただただ「子爵」を物語に巻き込むために必要だっただけのことです

ここでウィリアムが対立する相手はロンドン社交界でも父親でもなく、なぜか「子爵」ということになってしまうのです。「子爵」はウィリアムの父親に唆されて、エマを誘拐し、アメリカに追放しますが、これに気付いたウィリアムは激怒し、「子爵」に「成り上がりなら成り上がりらしく 上の言うことを素直に聞け 取り柄といえばそれくらいだろう」と言われたため、「子爵だろうが公爵だろうがそんな人間との付き合いはこちらから願い下げる!」「成り上がりにも矜持というものはございます!!」と啖呵を切って退場するのですが……。
悪いけど、この二人だと小人物すぎて、子供の喧嘩にしかなってないんですよ。「子爵」はウィリアムの父親に上手く転がされて、親切のつもりでエマを誘拐したんだし、ウィリアムはウィリアムで「矜持」などという言葉を用いる資格がいったい彼のどこにあるというのか?
しかも、最後までウィリアムはエマ誘拐の件に黒幕として自分の父親が絡んでいることを知らないままなんです。都合良すぎだし、物語としてそれでいいのか?と疑問です。知ってしまうと、当然、父親と縁を切るでしょうから、作者念願の「上流奥様エンド」にならないからでしょう

そうして物語は「成り上がりのジェントリ VS 子爵(貴族)」というショボい構図を見せただけで、「一応何か描きました」ってことなんでしょうかね?、残りの肝心な部分は実に有耶無耶のまま終わるんです。
この物語上、もっとも重要なはずの、ウィリアムがメイドを好きになった件は、ロンドン社交界の噂になることはなく、どこまでも主役カップルは守られたままで終わりました

エマを誘拐してアメリカに放置したエピソードも、ウィリアムが持てる地位と財産と裕福な友人をフル活用してあまりにもあっさりエマを見つけたため、アメリカ編が長く続くと思っていたのに肩透かしをくらった読者も当時多かったのですが、このエピソードも、ウィリアムが「子爵」に啖呵を切るために、「誘拐」という事実だけあればそれで済むから、必要最低限のシーンしか描かれてないのだと思います。アメリカでの二人の会話も実に馬鹿馬鹿しくて

エマ「どうして…自分の決めたとおりにできないんでしょう……」
ウィル「僕もそうです でもふたりで決めた事ならできると思います」

エマは、ウィリアムと別れると決めたのに、どうしてそうできないのかを語っているのに対し、ウィリアムは「別れる」にしろ「別れない」にしろ、二人で決めたなら、そうできるって言っているんですよ。
なんという論点ずらし。決めたことをできるかできないかっていう問題じゃないでしょうに

エマもエマで、最初の方は何を考えているかよくわからないながらも、奥ゆかしく賢いという設定のキャラだったはずなのに、最後の方はジョーンズ家の人々の迷惑を考えない、図太くて無神経な不思議キャラに成り下がってます。エマが一言「愛人でかまわないのですが」と言えば、すべて丸く収まるのですが、なんせ「上流奥様エンド」は至上命題なので、そんな発言はエマのキャラがどんなに崩壊しようが許されないのです

結婚するにしろ、最低でも、ウィリアムは当主の地位は弟(二人いる)に譲って、エマと二人でつつましく暮らしていくという流れにすべきなのですが、森薫さんは「駆け落ちなんて辛気臭い」という考えだったそうで……
大体、「奥様」になるなんてエマが望んでるわけがないのです。嫌がるエマを無理矢理「奥様」に仕立て上げることが森さんにとっての「そこが大事!」展開だったのかもしれませんが……

象に乗ってロンドンの街を走り回る世界観だったなら「上流奥様エンド」も微笑ましく受け入れられたかもしれませんが、無駄にリアリティを持たせてきたので、それ無理ありすぎでしょ?というおかしなことばかりになってしまったのです

2ちゃんねるのスレでも、「エマ」を批判する人はどんどん増えていき、本編の最終回が出た頃は、大いに荒れました。
Amazonの☆一つや二つのレビューを読むと、当時どのような批判がされていたか想像できると思いますが、2ちゃんねるで私が最も共感したレスを紹介します

113 名前:名無しんぼ@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2006/03/16(木) 21:41:39 ID:uZGLi2Ue0
これで次回で終わりか

作者がおどらす人物は、
常識とともにあるか、
常識を上回るか、
常識の横にはみ出すか、であるべきで
常識以下であっては困る。
非常識であってはまずい。

映画評論家の言だけど
結局、ウィリアムって最後まで常識以下だったような感じだった。

漫画板 森薫「エマ~Emma~」 -36-

で、長々と「エマ」批判を書いてきましたが、今思うと、この当時の森薫さんは、わりと萩尾さんと通じるものがあったんじゃないかと思うんですよ。全体のバランスを考えず、自分の興味のある部分しか見えてなさそうな点とか、読者が何をどう感じるかをいま一つわかってないんじゃないかという点とか、キャラの一貫性を考えずに、その場その場で都合よく動かしてしまう点とか、明らかに黒なのに、白と言いくるめればそれで済むと思ってそうな点とか……。
ひょっとして、絵がとても上手い人は、このような傾向があるんだろうか?と私は考えたのですが、知人は、森薫さんの場合はまだ若く、単に中二病だっただけなのでは?という見解でした

森薫さんは、その後「乙嫁語り」の連載を始めるのですが、気の進まないまま単行本数巻をまとめて読んだ私は、もう心底驚きました。「エマ」で見られたような欠点が一切ないんですよ!
「乙嫁語り」は、「エマ」での森薫さんの、優れた部分だけを凝縮し、受け継いで、さらに進化したかのような漫画でした
「エマ」で見られた、スカしてるというか格好つけてるというかあざといというか、読んでてちょっと赤面しちゃうようなシーン・台詞もほぼ見当たらないんです。
例えば「料理のまえに人は対等」という何を言っているのか意味不明な台詞、物欲に囚われず、友人にぽんっと高価なネックレスをタダであげてしまう素敵な奥様オーレリア(とても下品な行為では?)、お屋敷の皆が見ている前で、二階?から窓の向こうにウィリアムを発見し、延々と走って抱き着くエマといったやりすぎ描写が一切ありません

いや~、人間ここまで変われるものなのかって思うほどの変貌っぷりでしたね。優秀なブレインがついたのかもしれませんが、だとしても、他人の意見を聞くという姿勢は素晴らしいです。尊敬の念すら覚えます

現時点で「乙嫁語り」は14巻まで出ていて、私はすべて読んでますが、「エマ」で見られた悪い部分(というか私が好きではなかった部分と言ったほうがいいかな)は一切なく、読んでいてひっかかる点も、少なくとも私にはありません。おそらく、このまま傑作漫画として終わることでしょう

で、萩尾さんと森薫さんの、この違いはどこから生じたのか?という点を考えてみたかったのですが、考えてわかるようなことじゃなかったですね。
書いているうちに何か思いつくかと思ったのですが……

ということで、何の結論も出ませんでした(おいおい……)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?