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宝石の国とポーの一族

(「宝石の国」を未読の方は読まれない方がいいかと)

現在はだいぶテンションが落ち着いてきたのですが、少し前に私がめちゃくちゃはまった漫画が「宝石の国」(市川春子 講談社)でした。この漫画が話題になり始めた初期に一巻だけ買って、当時はキャラの見分けはつかないし、話はよくわからないし、少女戦隊モノ?って思ってすぐ読むのをやめたのですが、その数年後、アニメ化がきっかけで、一気にひきこまれることになりました。とにかく言葉のセンスがイイ!んです

繰り返し読み込んでみると、当初は見分けのつかなかった脇キャラたちも、実は非常によく練られているのがわかります。漫画で見せている部分は氷山の一角にすぎず、例えばシンシャのフォスに対する心情はほんの「断片」しか描かれてないのですが、シンシャの葛藤、フォスへの罪悪感、やがて、月へ行き、恋する相手?を得て、フォスを忘れてゆくまでの心の動きが感じ取れるのです(シンシャの恋する相手の存在は漫画本編ではなく、12巻特装版の冊子で極めて控えめに描写)。
ただ……もうちょっと情報量を多く出してもいいんじゃない?とも思うのですが……

今は第一部(なの?)は終わって、人間の存在しない「真に美しい合理の世界」「一方的に利用され続けた無機体のための世界」における岩石生命体の話になっています。作者が本当に描きたかった「宝石の国」というタイトルは岩石生命体のほうなのかもしれませんが、私が「宝石の国」という漫画に対して真っ先に想起するものは、この漫画が完結したとしても、これからもおそらく、第一部で描かれた「永遠の生は苦しく耐え難い」――ここに尽きるでしょう

この作者はもともと心理描写を言葉で説明することを避ける傾向にあるし、自主規制あるいは編集からの圧力?もあったのかもしれませんが、登場人物たちの「死にたい」という気持ちを露骨には描いてないんですよ

死(無)への渇望を(微妙にですが)表現している宝石キャラは、ほぼパパラチア一人で、月人エクメアがそのほとんどを言葉で説明します

エクメア「皆を早く自由にしてやりたい 楽しそうに見えるだろうが 皆無理をして疲れ果てている 夜眠り朝起きて食事を摂り糞をして 誰かと対話し和解し愛し合いいがみ合う 絶えず進展していない不安に侵され むりに問題を探し出し小さな安心を得る 永久にその繰り返し」

宝石の国8巻 講談社

エクメアの言う通り、月人たちはなんだかんだで楽しく生きているように見えるので、あまり切実感がありません。そんな中、月人クイエタが、エクメアとカンゴームの華やかで賑やかな結婚式の喧噪の中、

クイエタ「こんな晴れ晴れとした気分は久しぶり きっと 私達は無に近付いているわ」

宝石の国10巻 講談社

と嬉しそうに語るのがなんともゾッとします。永く生きすぎた月人たちがいかに「生」に倦み疲れているか……

月人たち(元宝石も含む)はフォスのおかげでようやく一万年後に「無」に行けることになるのですが、私は漫画では描かれていない、そこに至る一万年の「行間」に想いを広げずにはいられませんでした

宝石たちの好むパチパチたっぷりの美味しそうなアイスも、パイナップルソーダやらフィグヨーグルトやらミントマスカット、ピンクチョコレート、シャンパンレモンといったフレーバーを増やして新作アイスを作っていけば、数十年くらいは飽きずに食べ続けられるでしょうけど、数百年、数千年もたてば、どんな新作を作っても目新しさはなくなり、いや、それ以前にアイスを食べる行為自体に飽きてくるでしょう

私の脳内では、一万年後の月人(元宝石も含む)たちは、皆、例外なく、動くのも言葉を発するのすらも億劫になってごろごろと横たわり、虚空を見つめるだけ。恋人たちもとっくに互いへの愛は色あせ、誰に対しても何に対しても関心を持てず、自意識を保ち続けることがただただ苦痛で、一刻も早く死(無)を迎えたい……という状況になっていて、それ以外のシーンを想像することができません

私はお気楽人間なので希死念慮もないし、世の中に対する好奇心もまだまだ十分あって、これから先も楽しく生きる気満々なのですが、それは単に「相対的」なものにすぎないと突き付けられた思いでした。
つまり、何百年、何千年も生きたとしたら、確実に自分が死にたくなる日が来るであろうことが、「宝石の国」という漫画にどっぷりとシンクロしたことで、はっきりと自覚できたのです

「宝石の国」を鬱漫画と評する人はちらほら見かけますし、言っていることもわかるのですが、私にとってはむしろ「死」というものの認識を好ましい方向に変えてくれた感謝すべき漫画です。ある意味、ここまで「死」を無条件で全肯定している漫画もないんじゃないでしょうか

だから、フォス以外の月人(元宝石も含む)が揃って「無」へ行くシーンも「良かったね」と思うだけで、つらくも悲しくもありません。
シンシャもパパラチアもユークもそれ以外の宝石たちも、熱く語れるほど大好きだったんですけどね

で、「ポーの一族」も同様に「永遠の生」を扱ってますが、エドガーは吸血鬼として生き続けることを余儀なくされているわけではありません。彼には常に「死ぬ(消滅する)」という選択肢があったのです。この一点で、「宝石の国」とは決定的に異なります

初めて読んだ小学生の頃から、なぜエドガーはメリーベルが消滅した時点で死を選ばなかったのだろうか?という疑問があって、今はもちろん、ストーリー上の都合だとわかっていますし、「エディス」での「もう明日へは行かない」との台詞でエドガーが死を選んだのだと理解していたので、旧ポーはすっきり完結したと長い間信じてました。後年、萩尾さんがエドガーは死んでない、エドガーは死なせない、と言っているのを読んだ時は驚いたものです……

けれど、新ポーも含めて解釈すると、エドガーが今まで死ねなかったのは、いつか人間に戻れるという希望を秘めていたからと捉えることもできそうです

ということで、今回も無理矢理「ポーの一族」に絡めてみました(絡めてないか……)

「宝石の国」と「ポーの一族」の優劣を語りたかったわけではありません。どちらも凄い作品だと思います。
ただ、仮に今の年齢で初めて「ポーの一族」(旧作)を読んだとしたら、十代のようには夢中になれなかったでしょうね。夜、寝室の窓を見つめて「エドガーとアランが迎えに来てくれないだろうか」などと夢みていた頃があったなど、今となっては信じがたく、まるで、髪に綿毛のついた、初期の純粋なフォスの記憶を見ている気がします



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