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怖いものなしの若造だった頃のこと~2021

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近く居なくなる予感を持っていたので、自分の生きた経験にテーマを与えながらまとめたのが主な内容です。時事関連も案外多め。 現在とは異なる書いた当時の自分自身の半世紀です。
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上京

上京

東京にある国公立校で自分にとって一番少ない勉強量で入れそうだからと選んだ学校に入学した僕は、とんでもなく優秀な人が揃った読書サークル、社会思想研究会(略して社思研と呼ばれた)に入ったものの、圧倒的に落ちこぼれだった。

しかし強烈な自負を持っていて、それが背伸びしてでてもついていった理由だった。
当時の最先端から60年代くらいまで遡るサブカルチャーやカウンターカルチャーへの尽きない興味と深い探究を

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「教育」やら「訓練」やら

「教育」やら「訓練」やら

18歳の自衛官は追い込まれていたんだろうなとは、刑務所での二週間の「訓練」を経験しているから理解できた。

日本の実力組織における教育期間中とは求められる規律やルールを叩き込むためにあり、それはそれで縦社会の体育会系やら不良行為を経験したならばまぁ仕方がないかとはなるものだが、彼はそういうタイプではなかったのだろう。

僕の訓練期間はちょうど一年前の梅雨どきで、刑務所での移動で必ず求められる行進や

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河内の小学校低学年男子

河内の小学校低学年男子

決してステレオタイプには受け止めてほしくないが…、大阪の河内にある小学校に入学した僕を取り巻く世界は、ケンカに次ぐケンカの世界だった。
ボクシングのようにケンカの強さでランキングが決まり、小学校低学年男子たるものの最大の価値はケンカの強さだった。

当たり前だが、もちろんそんなことに関わらない子たちも多数いた。
僕は当時父の勤める会社の社宅にいたものの、何人かいた同級生のうちケンカの世界に入ってい

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河内から愛知県へ

河内から愛知県へ

河内の小学校の校歌は、今でも冒頭だけならソラで歌える。
一年生のときの担任はいざさ先生という、いつも優しく朗らかで、ふっくらとした印象を持った方だった。
多分、僕の初恋の相手はいざさ先生だったと思う。

愛知県に転校してきて、最初にやらなければならなかったことはドラゴンズのファンになることだった。
そうしなければ友だちにはなれないと、毎日野球練習をしていた西谷くんに言われ、必死になってドラゴンズの

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オードリー・タンの軽やかさ

心身ともに最悪の状況が続くのだけど、オードリー・タンの言葉や行動を読んでいくと希望が見えて心が軽やかに安らかになります。

台湾のオープン・ガバメントはスイスのダイレクト・デモクラシー(直接民主主義)よりも、これからの民主主義として先を行っているとすら思うくらい。

ITで知られるオープンソースの考え方を政治に持ち込むやり方が実にスマートなんですね。

この点で、権威が必要との主張がある直接民主主

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デフレからインフレへ?

デフレからインフレへ?

重要なことなので、某所でのやりとりから僕のコメントを貼っていきます。

(前略)僕は日本でリフレ理論が受け入れられていく過程をずっと見てきました。
アカデミズムの中での話なので、2000年前後だったでしょうか。

田中秀臣さんが主導し、松尾匡さんも途中から加わってきました。

リフレ理論は海外で先行していた議論です。

そして、その後に欧米各国がリフレ政策を採用する際には、必ずケインズの「有効需要

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親友との出会い

親友との出会い

僕の通った大学は、当時は前期課程は小平市、後期のそれは国立市に通うことになっていた。今は前後期とも国立にまとまっているが、小平キャンパスも決して悪いものではなかったと思い返す。

僕には、社会思想研究会の主要メンバーが卒業したり、それぞれの道に進んでいく中で、事実上これまでの先輩の方々との付き合いが解体していく後期課程だったが、しかしまた新しい人たちと知り合う機会が待ってもいた。

一生付き合える

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農文協というところ

農文協というところ

農文協は正式には社団法人ではあるものの、完全な独立採算制をとり活動は一般企業と変わらないため、今後は会社と呼ぶことにする。

就職活動をして幾つかもらった内定から農文協を選んだのは、子どもの頃から胸を痛めていた環境破壊であり、人間と自然環境はいかに共に生きていけるかというテーマを持って進学先を決めたことに直結した理由によるものだ。
東京でいろいろな経験をしてきて、今度は地方を見て回りたいという気持

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野良犬シロ

野良犬シロ

愛知県の富吉団地に、いつの間にか大きめの中型犬で雑種の雌犬が住み着くようになった。
ほぼ白い体毛に薄い茶のブチ模様が少し目につく程度で、子どもたちはシロと呼ぶようになり、シロもまたいつも機嫌がよく、無駄吠えも一切しなかったため、怖がる子どもはいなかったように記憶している。

そのうち小学校への集団登校について来るようになり、授業中は校庭の近くでおとなしく過ごし、帰りは団地の子たちと一緒に帰ってくる

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研修から支部へ配属

研修から支部へ配属

農文協の研修の最後は、実地で農家の方々を相手にした営業だった。
行き先は福島県と決まり、確か郡山市に宿をとって、そこから各地に新人たちが散らばっていった。
僕は三春の方と決まり、安達太良山を越えて出かけていく。
現地では徒歩でと決められていて、そこまではワンボックスのバンに詰め込められて移動する。
担当する地域に着くと、一人また一人とクルマから降りていく様は、まるでパラシュート部隊が順番に降下する

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ファミリーヒストリー

ファミリーヒストリー

三重県長島町の家は念願の「マイホーム」だった。父の勤める会社が開発した住宅団地の空いた一画を購入したに過ぎなかったが、それでも子ども心にも浮かれるような気分があったことは間違いない。
翌年には、父は「マイカー」も手にした。真っ赤なニッサンサニーのクーペという、家族連れでは使いにくいクルマではあったが、それまで支給されてきたクルマとは違う父の様子を子どもながらに感じた。

ようやく戦後の高度経済成長

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出勤前に一言

出勤前に一言

梅雨が始まったばかりというのに、末期に襲ってくるような豪雨になっている。
憂鬱極まりないが、某ライングループのやりとりを読んで、ゲンナリ感がいや増す一方だ。
だから、これは愚痴です。

僕の行った大学はそれなりだから、ゼミいた当時の仲間でつくるグループの中にも、某公共放送やかつては日本のクオリティペーパー扱いされていた新聞社に勤めるやつも結構いる。

でまぁ、その中のお一人に新型コロナにおけるファ

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長島中部小学校

長島中部小学校

四年生から三重県長島町に引っ越した。
駅まで歩いて十分ほどなので、僕の家の周りは多くのアパートに囲まれてしまい、地元出身ではない住民も多くなったが、当時はまだまだ地元の子たちが圧倒的に多くて転校生は珍しかった。

四年生になった僕の生活や行動は劇的なほど変わる。
理由は今でもよくわからない。
団地から一戸建てに変わったことで、それまでどこにあったのかわからない膨大な本が家の本棚を埋めていった。

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米川米造くん

米川米造くん

同じ団地にいた白川くんは、勉強ができるだけでなく、体育もでき(高校生の時にバスケットボールを野球のボールみたいな豪速球で投げたことがある。とんでもない肩の力というか膂力だ)絵も上手くなんでもできたが、くだらないことやしょうもないことも大好きで、そこが未だ小学校低学年の心を内に持つ僕とはウマが合った。

ある日突然「今日から自分は白川某ではない、米川米造だ」と言い出し、本人が言うのならとそれからずっ

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