詩の授業のコツ「どきん」谷川俊太郎

詩の授業に苦手意識がある国語の先生は、きっとたくさんいると思うんです。子供も同じですが。

「この詩について、何を解説・説明すればいいのか。何を授業すればいいのか。わっかんないなあ」

そう思ってネットを検索すると、変に「遊び」や「笑い」に持っていっている授業アイデアが転がっていたりします。それがいいと感じたならそうすればいいと思いますが、「詩をまっすぐに読んで、素直に受け止めて、自分なりに味わう」ということを教えるのが国語教師の仕事だと私は思います。

だから、

「これ、どういう詩なんだろうね」

という独り言から入ればいいと思います。一人の大人として、自分の目線で、寄り添ってあげたり逆に寄り添ってもらったりしながら、いっしょに読めばいいと思います。

音読も、気負う必要はありません。

「とりあえず読んでみるね」

と気軽に、自然な感じで音読してあげて、

「うーん。まだぴんと来ないんだけど、これどういう詩なんだろうねえ」

と悩んでみてください。たぶん、子供たちは安心します。わからないことを言わされたくないと身構えている生徒はたくさんいます。

「とりあえず、もういっかい読んでみようかな」

先生もわからないんだ、と思われることはまったくマイナスではありません。先生は完璧超人ではありません。むしろ、一人の人間として接することが何より大事です。私が神奈川県の進学塾で働いていたとき、当時の社長(この方も一種のカリスマというか傑物でしたが)から教えられたことのひとつです。たとえば子供を怒るときも、正しさを押し付けようとせず「お前のそれがムカつくんだよ!」と自然な感情をぶつける方が響くし、伝わります。

そもそも詩は、一人の人間の独り言のようなものです。

「こうかな? どう思う?」

といっしょに考えることで、思いがけない発見もあるでしょうし、信頼関係も深まります。

谷川俊太郎さんの「どきん」は、三年生一発目の国語の授業にふさわしい詩です。

たとえばこんな感じでどうでしょう。

これ、どういう詩なんだろうね。
谷川俊太郎さんは、何を見て、どういうことを想像して、これを書いたんだろうね。
なんかこう、具体的な場面とかシチュエーションについて書いているわけじゃないと思うんだよね。
最近、何かを押したらがらがら倒れた、みたいな経験したことある人、いる?
「たおれちゃったよなあ」の部分、「たおれちゃったなあ」じゃなくて「よなあ」と言ってるから、倒れるだろうなあってわかってて押してる感じだね。
「いんりょくかんじるねえ」「ちきゅうはまわってるう」のところで、急に世界観が広がった感じがするね。みんなくらいの年の子供かなあ。地球が丸くて、引力っていうので引っ張られているから人間は立っていられるってことをなんとなくはわかっているくらいの子供が、身近なものを触ったり押したりしていて、がらがらと崩れたのをきっかけにふと、「はっ!」ともっと大きな、世界の法則みたいなことについて考えてしまった。そういうことって、あるよね、ある気がするよね。
ニュートンが、りんごが樹から落ちるのを見てはっとなったっていう話も、そういう感じかな。
ぼくはこないだ、薪割りをしていて、世界の広さを感じたよ。薪ってね、毎日毎日たっくさん燃やすんだよ。冬のためにたーっくさん用意するんだけど、あっという間になくなっちゃうんだよ。それをさ、大勢の人間があちこちでやっている。燃やす以外にも、木はいろんなことに使っている。それだけの量の木が地球には生えている。なんか、すごいことだなあって。
それから「かぜもふいてる」「あるきはじめるかあ」と言って、広い世界へ踏み出していっている。外の世界を感じている。
小さな、身の回りだけだった狭い世界が、だんだん広がっていく様子が描かれているのかな。小さな子供が少しずつ成長していく感じ、にも見えるね。
そして最後に「だれかがふりむいた」と言って、ここで初めて、自分以外の他者を意識している。
ここを「どきん」って表現しているところがおもしろいなあって、ぼくは思うなあ。やっぱりね、人間関係には緊張感がともなうんですよ、年を取れば取るほど!(ちょっと力説気味になる笑)
みんなもさあ、誰かに話しかけたり話しかけられたりするのが、昔は今より緊張せずに、何も考えずにできたなあとか、思わない?
なんなら、ぼくは今も緊張しているよ。みんなも、どんな先生かなあって緊張してるんじゃない?
今、目が合っちゃったけど、どきんっ!って感じじゃない?
この詩のように、いろいろ試したり世界を広げたりしながら、いっしょに一年間を楽しんでいきましょう。

自己紹介代わりに、最初の授業でいきなりこの詩の授業を始める、というのもなかなかおしゃれだと思いますよ。

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