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メンデルスゾーンの前と後で音楽史は区分される


メンデルスゾーンには色々な顔がある。
音楽史の本など読むと、メンデルスゾーンの功績は、”《マタイ受難曲》を蘇らせてほとんど忘れられていた存在だったバッハを復活させたこと”などが紹介されていたりするが、単にそれだけじゃない。

メンデルスゾーン自身が19世紀のバッハだったと言える。


たとえば、
バッハの《マタイ受難曲》で一番有名な「血潮したたる主の御頭」というタイトルのコラールがある。曲の要所要所で、調や和声が変えられて、5回も歌われれ、《マタイ受難曲》の象徴的な旋律であることから「受難コラール」とも言われるこの曲。

そのコラールを使いまくった同名の「コラール・カンタータ」をメンデルスゾーンは作っている。
これなんか聴くとほとんどバッハ。

単に同じコラールを使っている、というだけではなくて、
その異様な懲り方ーーーこのコラールの有名な下降音型の旋律がバスに歌われるが、それがすぐに5度上でアルトにひきつがれ、また直後に4度上で重ねられ、最後にソプラノが8度上で2倍の音価で歌われる、という感じの異様な懲り方、しかも凝っているくせに音楽全体はすごく美しく流れていく、というようなところも、本当にまるでバッハの仕業である(笑)

同じコラールを作ったオルガン曲。
これなんかもまさにバッハのオルガン曲にありそう。

受難コラールを使ったオルガン曲といえば、
先日書いた記事「歴史上初めての”バッハづくし”のオルガンコンサート by メンデルスゾーン」の中で、メンデルスゾーンがすべてバッハのオルガン曲を使った演奏会を行ったことを書いたが、そこでも紹介したシューマンの書いた批評を再掲したい。
「(アンコールでの即興演奏は)もし私が勘違いしていなければ、それは『血潮したたる主の御頭』のテクストに基づくものであった」「その後半に彼はバッハの名”BACH”を編みこみ、フーガへと導いた。・・・」

よく本などでは、その早熟の天才性から”メンデルスゾーンは19世紀のモーツァルトだ”などと評されていたりもするが、むしろ”19世紀のバッハ”と言ったほうが自分的にはしっくりくる。まあ、両方つけてもいいんだけど(笑)


メンデルスゾーンには「オラトリオ三部作」の計画があったらしい。
若い時に《パウロ》(1836年)を完成させている。そして亡くなる一年前にはオラトリオ《エリア》(1846年)を完成させている。
そして、亡くなる1847年にとりかかったものの、未完で終わったオラトリオに《キリスト》がある。

パウロは新約聖書に出てくる伝道者、
エリアは旧約聖書に出てくる預言者、
それぞれ新約、旧約を代表するような人物を歌い上げ、最後にそれをつなぐものとしてキリスト本人をとりあげようとしたらしい。

旧約と新約をつなげる壮大なオラトリオ三部作計画など完成していたらどんなに巨大な意義があったか。
バッハの最後の大作《ロ短調大ミサ曲》は、カトリックとプロテスタントの対立をこえた汎宗教的な精神で作られたもの、などという評価もあるが、ひょっとすると晩年のメンデルスゾーンの目指したものもまさにそうした方向だったのかもと思うと、つくづく《キリスト》が未完におわってしまったことが残念。

ちなみにこの《キリスト》は、”キリストの生誕を祝う場面”と”弾圧・死の場面”が残されているのみ。この残された部分だけでも本当に素晴らしい。
個人的には上の動画の5分45秒辺りからのコラールに「あけの明星の、なんと美しく輝くことか」が使われているのが嬉しい。場面的にもこんなにピッタリした使われ方は奇跡のようだ。
ちなみに、バッハは教会カンタータ1番(作品番号「BWV1」!)にこのコラールを使った名曲を作っていて、自分がバッハの教会カンタータの素晴らしい世界にはまりこむようになったきっかけの曲でもある。



あと、メンデルスゾーンの巨大な功績としては、当時の音楽家全体の社会的地位の向上をはかり、大きく実績をあげたこと。

以前まとめた記事 →団員の給与の大幅賃上げを実現!エライぞ、メンデルスゾーン

モーツァルト、ベートーヴェンは作曲家として王侯貴族から独立して職業的自立をはかるために苦闘した人たちだったが、メンデルスゾーンはそこからさらにすすんで、演奏家、音楽家全体の生活水準と社会的地位向上のために奮闘して前におしすすめたことはどんなに評価してもし過ぎることはない。

ちなみに、自分は社会保険労務士を仕事としてやっているので、メンデルスゾーンがオケ団員のためにどういう年金制度を作ったのかというのはとても興味がある。少し前に図書館で調べたりもしたが、結局はいま日本語で出ている文献などではその具体的なところまで明らかにした文章はないであろうこと、くらいまでは分かった。いずれドイツに留学でもしようかな…(苦笑

さらに、
今につながるクラシック音楽の演奏会のパターン(小品や協奏曲があり、最後に交響曲でしめる、みたいな)もメンデルスゾーンがライプツィヒで始めたものだ。

また「ライプツィヒ音楽院」を1843年に創立した。現在は「フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学」となっている。その教授陣はメンデルスゾーン自身はもちろん、作曲ではシューマン、ヴァイオリンにダヴィット、ピアノにモシュレスやクララ・シューマンなどすごいメンバーだったようだ。

作曲家だけでは音楽は鳴らないからね。
それをきちんと演奏できるプロの演奏家を養成するための教育機関があって、それを聴こうとする市民がいて、はじめて音楽が音楽として社会のなかで鳴り響いていくわけで。

特にテレビもラジオもCDもない19世紀だしね。

21世紀の現代の人間のクラシック音楽への接し方ーーーどういう音楽が聴かれているか、どういうコンサートが開かれているか、職業演奏家の存在の仕方、教育のされ方、指揮者の存在ーーーなどを考えると、上に書いたようなものだけでも、クラシック音楽史の時代の区分として、メンデルスゾーンの存在というのはひとつの画期になっていると思う。

言い方を変えると、つまり、

クラシック音楽の歴史はメンデルスゾーンの前と後で区分けされる。












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