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【小学校4年生】目の前で親友が自転車で崖から落ちた話

保育園時代、私は引っ込み思案で友達が一人もおらず、保育園から脱走して家に帰ったり、行きたくなさすぎて病気になるくらいのコミュ障の陰キャでした(笑)

しかし、小学校に上がって入学式の時。今だに覚えているのが、保育園でゴチャゴチャになりながら大騒ぎしていた連中が、自分と同じように全員ビシッとした服を着て新品のランドセルを背負って統率されていて

うわー!こいつら、俺と同じじゃん!俺と同じ格好して、俺と同じランドセル背負って、今まで大騒ぎしてたのに、何をかしこまってるの!?

大人になった自分の言葉で翻訳すると、こんな感じのことを思い、1年生成り立てから陽キャに変貌したのを覚えています。

そして、始めて1年生の自分のクラスに入ったとき、たまたま隣の席だったのが、保育園が一緒だったK君。
K君とは保育園時代、遊んだこともなかったと思うのですが、なぜかテンションMAXな自分は「うわ!K君!K君だ!!」大盛り上がりしました。
記憶ではこのときのK君は「誰だ?お前?」みたいな顔をしてた気がします。

ただ、この一件でK君も悪い気はしなかったようで、このときから非常に仲の良い親友同士の付き合いが始まりました。


どのくらい仲が良かったかと言うと、遊ぶのはほぼ毎日。どちらかが風邪で寝込んだとか以外は常に一緒。先生や周りの友達からは「兄弟?」と言われるくらいの仲の良さ。委員会とか集まりで遅くなるときでも、終わるのを待って一緒に下校。月に2回はどちらかの家に行ってお泊り。いい事するときも、悪いことして怒られるときも常に一緒。

一番の思い出は、家の電話機を使って、1週間に渡ってイタズラ電話をかけまくるという悪行を働いたときでした。
住んでいたのが田舎町だったので、何百件もかけてるうちに、町でイタズラ電話が横行していると問題になり、ある日、学校でも問題になり「声の感じから小学生くらいだという話になってるんだけど、この中で知ってる人はいないですか?」と、学校全体が居残りさせられる事件に発展。
K君と俺は目配せで「どうする?」「ヤバいな」「素直に名乗り出るか」となり、その場で起立。「僕がやりました」
その後は、もうもう怒られまくりでした。警察も来ましたし。
ただ、お互い責任を擦り付け合うわけでもなく、正直に名乗り出たから許す、次は無いけどな。みたいなことを担任の先生や親から言われ、1ヶ月位、一緒に遊ぶことを禁止されました。

こんなこと、絶対にやっちゃダメなことですが、なんというか、小学生らしい責任の擦り付け合いとかもしない、本当に信頼し合ってた親友だったなと今でも思います。

小学校3年生になって、私が引っ越しで転校したときも、休みの日になれば自転車で1時間かけて家まで遊びに来てくれて、泊まっていってくれたり、小学校4年になり1年でまたもや引っ越して戻ってきたときも、大喜びしてくれてまた毎日のように遊ぶ親友同士が復活。周りの友達も親も呆れるくらい仲が良かったんですよね。


さて、小学校4年生の初夏のある日。


私は図書委員だったので、16時位まで図書室に居残り。
帰ろうとすると玄関でいつも通り待っているK君。

時間も時間なんで、普通なら途中まで一緒に帰って別れるんですが、何故かこの日は「ちょっと一緒に遊ぼうぜ!」となり、私の家へ。
しかし、さすがに時間も17時近くなってきたので、うちの母親が「もう17時になるから今日のところは帰りなさい。」と言うんで、渋々帰宅。
途中まで送ってくよと言い、二人で自転車に乗りながら海沿いの道を走りました。

この海沿いの道ですが、国道と住宅街を挟んで崖になっていて、崖には金網状のフェンスが建てられ、人が落ちることを防いでいる状況でした。
海沿いの街なので、至るところに海産物の加工場があり、船や工場で使った廃材などがあちこちに捨てられてるんですが、当時、私達の学校でブームだったのが「秘密基地探し」。
野原に大きい廃材が積み重ねられていると、ちょうどいい具合に中に空間ができていて、そこを秘密基地にしてお菓子やオモチャを持ち込んで友達同士で遊ぶときの基地にする。基地同士で戦争があったりして、仲の悪いグループに基地が見つかると壊されたりと、昔の小学生らしい遊びがブームだったんですよね。

私達のグループは第5秘密基地まで持っていたんですが、敵対グループとの抗争が激しくなり、秘密基地にいるとロケット花火を打ち込まれたりしたので、新しい秘密基地を探して体制を立て直すことに(笑)
で、ちょうど、この日の帰り道に、私が見つけたばかりの秘密基地にできそうな物件が近くにあるので、そこに立ち寄ってから帰ろう!という話になりました。

その秘密基地は、崖のフェンスから見える、反対側の崖の野原に積まれた廃材。
反対側の崖まで行くには時間がなかったので、とりあえず崖のフェンス側まで行ってみることに。
この崖のフェンスまでは砂利道ですが一本道が敷かれていて、道の両脇には数件の家が立ち並んでいました。

砂利道ですので、自転車で下るにもスリップしやすく、私は下を見ながら慎重に下る反面、自転車暴走族だったK君は「うおーーー!!」と叫びながら、ファンスへ猛突進し、途中でタイヤを滑らせ格好良く停止。

のはずだったんですが、「うおーーー!」という声の後、「うわーーーー!」という声。

下を向きながら遅れながら自転車で追走していたので何が起きたか分からず、目を上げてみると


K君はどこにもいない。


以前もこの道で、格好良く停止できずにフェンスに激突しそうになったのを、とっさに横の道に逸れて難を逃れたことがあったので「ああ、また失敗したんだ」と思い、横の道まで来て覗いてみたんですがK君の姿は無い。

え?と思いつつ、周りの家と家との間とかを探してもどこにもいない。
下を向きながら追い越したのか?と思い後ろ振り返っても誰もいない。
おーい!と呼んでも返事はない。


神隠し・・・


完全に行方不明・・・


なんとも言えない嫌な予感と背筋に冷たい汗が流れる中、まさかと思いフェンス越しに崖下を覗いてみると


いました、K君、自転車と一緒に、10m下に


鼻と口から大量の血を流しながら倒れてました。


本能的に近くの家に駆け込んで「すいません!!すいません!!友達が崖から落ちました!!」
近所の人達が集まってきて大騒ぎする中「この子の親の連絡先は!?連絡できるか!?」と言われ、すぐに自宅へ。
母親にK君が崖から落ちた!と伝え、すぐにK君の親へ連絡。
もう一度、K君のもとに行こうと思ったんですが、母親に「もう行かんでいい!大人に任せれ!」と言われ、そのまま自宅で茫然自失になったと思います。


次の日は学校を休んだと思います。そして次の日、学校に行ったら玄関に友達が溢れかえっていて「何が起きた!?」「なんでそうなった!?」「どういう状況だった!?」と大騒ぎ。まるで、有名人がインタビュー受けてるような感じになり、逆にこういった日常が自分のショックを和らげてくれて、その後は普通に学校へ通っていたと思います。


K君ですが、田舎の病院では対応できる先生がいないとのことで、一番、近くの病院に運ばれ手術。

私が普通に学校へ通っていたのは、また治ったら一緒に遊べると信じていたからなんですよね。
しかし、母親は私がショックを受けると思い隠していたらしいのですが、都会の病院に運んだときには意識不明の状態で手術。良くても植物状態だろうという、このときの医者の説明だったそうです。


ある日、家でテレビを見ていたら、一本の電話が鳴り、母親が取ると
「ええ、はい、はい、そうですか。」
こういう、親の電話のときの声って、子供は敏感に反応するんですよね。
電話を切って何も言わず台所に戻った母親に「ねえ、何かあったの?」と聞くと


「あのな、K君、死んじゃった」


あとの記憶はぷっつり途絶えています。


葬式に行った記憶も無ければ、学校に行った記憶もなく、後で聞いた母親の話だと、何を見ているのか分からないような目をして1週間位ボーッとしていたそうです。


なんで、あのとき、家で遊ぼうとしたんだろう。
なんで、あのとき、秘密基地なんて見に行こうとしたんだろう。
なんで、あのとき、図書委員なんてやってたんだろう。
なんで、あのとき、自分は止められなかったんだろう。


学校に行けるようになりましたが、友達は興味本位で面白がって話を聞いてくる人ばかりで、中には「お前が殺したんだろう!」と虐めてくる奴までいて、泣きながら家に帰ることも。

そんな中、Y君という、背が高くて力も強いけど、性格はおっとりとした友達が、「一緒に、現場、連れてってくれないかな」と、私にこっそりと言ってきました。
特別、仲が良かったわけでもなく、彼も興味本位なのかなと思いながら、一緒に連れて行ったんですが、


現場に着くなり「合掌」。


そして私に「本当に、大変だったよな」と一言。


彼の優しさに、涙しました。


それから1ヶ月か2ヶ月かは忘れましたが、私も落ち着きを取り戻したので、警察の事情聴取を受けることに。
少学校4年生にして、警察の取調室に入って取り調べられるなんて・・・テレビのようにカツ丼は出るんだろうかとアホなことを考えながら2時間位、経緯を話しました。

もちろん、目撃者は私だけなので、私が殺したという疑いもあったようなのですが、状況を見てもそれは無理だろうということに。

人が転落しないように建てられていた網状のフェンスなんですが、この時、大人一人が屈めば通れる穴が空いていました。冬の間、子どもたちがここで雪玉を投げて遊んだりしてるうちに錆びて穴が空いたようなのですが、大きくないので大丈夫だろうと放置されていたようです。
しかし、大人1人屈めば通れる穴というのは、子供用自転車もすり抜けられる穴で、スピードを出すために前かがみに自転車に乗っていたK君も一緒にすり抜けられるサイズになってしまっていたようです。

人の運命とは、数多くの要因が重なることで辿り着きます。
どれが一つ、欠けても成立しない。
これらの要因が集まるのは偶然なのか必然なのかは分かりませんが
それが運命なんだと思いますし、それが死なんだと思います。


この事件は、私の人生に深い影響を与えました。
「人は突然死ぬ」「それは避けられない」
そしてその恐ろしさ。
友達は多かったですが、特定のグループに所属することができず、一人の時間を大切にするようになりました。
人は突然いなくなる。だから、人に頼ったり依存したりができない、自分だけが頼りという考え方が強くなったと思います。
ただ、歳を重ねることで、その考え方も大きく変わってきましたが、子供の頃に経験したトラウマは何かしら一生、残っていくと思います。


もし、K君が今も生きていたら、2人はどんな付き合いだったんだろうか。
小学校卒業と共に遠くに引っ越した自分ですが、彼のことだから電車に乗ってでも会いに来てくれたんじゃないかと思います。なんだかんだ、今も腐れ縁が続いていたのかなぁ・・・幼馴染かぁ、男の幼馴染かよ!って笑い合ってたかもしれません。

ふと、K君のことを思い出し、書かずにはいられなくなりました。
考えたら6月16日・・・そういえば、あの日もこのくらいの時期だったのかもしれません。

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