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早稲田の古文 夏期集中講座 第17回 「古今著聞集」における後鳥羽上皇

「後鳥羽天皇は在位十四年・院政二十二年、その間広大な御領からの収入によって、水瀬・宇治に優雅な離宮を営み、各地に度々御幸なされ、和歌・音楽・絵画・競馬・蹴鞠などの文化面ですぐれた資質と識見を示して、華やかに活躍された。」

と、新潮日本古典集成の『古今著聞集』(上)(西尾光一・小林保治校注)P364の頭注に書かれています。いわゆる「日本史」の本は政治史に偏っているのでこのような紹介はしません。更に「和歌は特に秀でられ、『新古今集』の完成は言うまでもないが、多くの詠歌や残された宸筆の開始や消息などから、院の高雅な風格が偲ばれる」としています。王や皇帝や帝は権力者なので、権力者イコール悪と決めつけるのは偏った歴史観で偏見とのそしりを免れません。文化人としての側面は、それはそれとして評価すべきものなのです。

 特に後鳥羽天皇は、「中世以降の史書・歌集・説話集などに膨大な量の逸話や伝説が残されているが、本書においても、登場回数は二十六話に及んでいる」というのです。(同書P364頭注)歴史家はとにかく説話伝承というものを軽視もしくは無視しがちです。事実でない、史実でないというのです。事実でなくても真実であるというのはよくあることです。


人の感情に訴えて作り話を書きたくなるのは、それだけ人々の心をとらえたという真実があるからなのです。仮託された虚構というものは、人間性の真実を伝えるものとして高く評価されるのが文学の世界です。事実かどうかはどうでもよいことなのです。

たとえ史実でも人の心を強くとらえないものは文学では無意味なのです。後鳥羽天皇は文学の世界では真実そのものの人と言えるでしょう。同書によると

「専修念仏・宮廷作法・賭弓・和歌・熊野詣・競馬・絵画・音楽・蹴鞠・強盗逮捕・化け物退治など多彩は話題が展開するが、政治向きの話はなく、大体文化活動の面の話である」

としています。(同書P364頭注より)

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