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プロパティについて 【鴻鵠先生の現代国語教室】「顔の現象学」鷲田清一(講談社学術文庫)

 「プロパティ」という言葉を「財産」という有形的意味から、「人格的固有性」という無形的意味に使ったのは、ジョン・ロックが最初ではないでしょうか。
 1690年に刊行された「統治二論」では、「プロパティ」という言葉を、「物に対する財産権」という意味から、「自然状態において人が本来もっている固有の人格権」という意味に転換して使用しています。
 自然状態では、神の支配権の範囲にある「自然法」というものが存在し、人間は神の作品であることから、固有のプロパティとして「完全なる自由と平等をもつ」としています。〔岩波文庫「完訳 統治二論」(ジョン・ロック著 加藤節訳)「第二章 自然状態について」〕

 鷲田清一さんは「顔の現象学」(講談社学術文庫)において、「わたしという存在は何か」という問題提起の中で「自己同一性(アイデンティティ)」と「自己固有性(プロパティ)」を同列において理論展開をしています。(同書P.77)
 「顔というものは自分のものでありながら、自分では見たことのない他者性をもつ」というのが、「顔の現象学」の出発地点です。顔というものが「自己のものか他者のものか」という点において、「顔のアイデンティティにゆらぎがある」というのが現象学的認識なのでしょう。
 ジョン・ロックも、プロパティの人格的固有性という観点から「身体」というものも想定していたようです。

たとえ、大地と、すべての下級の被造とが万人の共有であるとしても、人は誰でも、自分自身の身体に対する固有権(プロパティ)をもつ。

岩波文庫「完訳 統治二論」(ジョン・ロック著 加藤節訳)P.326

 このようにジョン=ロックも、プロパティの固有性に関して、初めは「身体的固有性」から出発していたようです。人間はもともと神の被造であるという認識が強かったことから、人格のベースが「身体性」にあるのは当然なのかもしれません。

 ところが、「顔の現象学」というのは、「他者のまなざし」という視覚的認識が全ての前提条件となっているようにみえます。それはあたかも、「他者のまなざしという視覚的認識に自己のアイデンティティやプロパティが全面的に影響されるのだ」と言っているかのように思えるからです。
 特に顔というものは、全面的に他者のまなざしにさらされて自由にならないことから、束縛された存在として自由に処分できない「財産(プロパティ)」であるかのように扱われているのではないでしょうか。
 ここで思い出されるのは、1950年に出版されたリースマンの「孤独な群衆」という本です。
 この本では、アメリカ社会が抱える一つの病理として、孤独のまま他者に同調する他人志向型のモデルが提示されています。
 そこでは、20世紀の大衆社会において、漠然とした不安が原因で、自分一人の力で強い自立心を養うことができないことから、他者による承認を強く求め、自己の価値や目標にこだわることなく、大勢の他者の動向にひたすら追随していく様子が描かれています。
 今回取り上げた「顔の現象学」も、おそらく、この流れの延長線上にあるものと言えるでしょう。
 21世紀は、「孤独な群衆」が「他者のまなざし」に翻弄され、自己の「アイデンティティ」も「プロパティ」もゆらいでいく時代と言えるのかもしれません。


 

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