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社会的無為について 【ベッカリーア著『犯罪と刑罰』】

以前、明治大学法学部の入試で現代国語の問題として、ベッカリーアの『犯罪と刑罰』(岩波文庫)が出されたことがあります。
ベッカリーアは、フランス革命期の啓蒙思想家の一人です。
彼は、ルソーの社会契約説から刑法思想を導きだしました。
特に刑罰権の行使については、厳格な罰刑法定主義の要件を構成し、日本国憲法に明記されている31条以下の基本型は、この時代に完成されています。
ここで注目すべきなのは、34章の「社会的無為について」という論述です。

賢明な政体は労働と産業の中にあるから、社会的無為のために苦労することはない。ここで私がいうのは、社会に対して労働も冨も提供しない、無用のなまけ者のことであって、彼らは俗人からは愚かな羨望から尊敬されるが、賢明な者の目には軽蔑の対象としかうつらない。

ベッカリーア著『犯罪と刑罰』風早八十二・風早二葉訳(岩波文庫)P.158

刑事法においては「不作為は処罰できない」というテーゼがあります。
「何もしないこと(=不作為)」を犯罪と看做す事はできないということです。
刑事法においては、処罰の対象となり得るのは、「人の肉体を傷つける」「建造物を破壊する」といった具体的な行為(=実行行為)であって、行為が無いものは、処罰できないという立場を原則とします。
ところが状況によっては、何もしないことが犯罪的である場合があります。
一定の立場や地位にある者が、助ようと思えば助けることができた局面で、対象を死に至らしめた時、処罰の対象となる場合があります。
ただし、法によって義務と責任の範囲が明確に定められており、適用される範囲は限定的です。ここでも「不作為は処罰できない」という原則が貫かれています。

このような前提があるにも拘わらず、ベッカリーアは、「労働をしない無用のなまけ者」を批判の対象としています。
これこそが、彼が啓蒙思想家たる所以でしょう。
働かない怠け者は、それ自体に犯罪性はありません。
しかし、経済的貧困などから、いつの日か犯罪者になるかもしれないという危険性を秘めているとも考えられます。
日本では余り無いことですが、欧米などでは、失業者が暴動を起こし、商店を破壊して金品を強奪するということが横行していました。
世界恐慌の後、1930年代のアメリカもそうでした。
だからこそ、政府は積極的な雇用創出策を打ち出せたのです。
ここには、失業者=犯罪予備軍という前提が存在しています。
恐慌による失業者の増大は、犯罪が起きる可能性が増すことであり、治安を維持するために、雇用を創り出すことが必要となるという図式です。

働かない怠け者を、治安維持の観点から危険と看做すのは、人権上明らかに問題があります。
それでも、法的処罰をする前に、社会的・道徳的に批難すべきであるというのが、啓蒙思想家であるベッカリーアがとっていた立場です。

ベッカリーアのように、「社会的無為」について、刑事政策の観点から注目し、問題視しているということを積極的に発信する姿勢こそが、為政者に望まれることです。
これは、国制の責任ある立場にいる者がとるべき態度と言えるでしょう。
優しさと思いやりだけでは、通用しない世界だからです。

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