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生きるをみつめつづけた少年の詩集。

 14歳の時、新卒の現代国語の女性教諭が密かにわたしを職員室に呼んで、自分のデスクの引き出しからおもむろに一冊の本を取り出し、「これ読んで、感想を聞かせて」と言った。

 その詩集が矢沢宰の「光る砂漠」(童心社)だった。
当時、詩を書く授業があり、わたしの書いた詩が印象深かったので詩集を貸してあげたくなったと、先生は言った。

 その夜のことは今でもはっきり思い出せる。
「光る砂漠」のページを繰りながら、ずっと洟をすすり上げていた(なんだかワケがわからん涙がドバドバでた)。

 詩集を編んだ周郷博氏の解説ページに一葉のモノクロ写真があった。
21歳の矢沢宰の写真。証明写真だと思う。詰襟の学生服を着て真正面を見つめている。
 私は、もうこの世の人でない矢沢という男性をいっぺんに好きになってしまったのだった(ひとめぼれというヤツだ)。

 その後、おこづかいでこの詩集と(矢沢が14歳から21歳で亡くなるまでつけていた)日記「足跡」(童心社)を購入した。(この本は現在絶版になっていると思われます)


 詩を書いて生きていこうと、妙に大袈裟で(思い返せば)滑稽な決意をしたのは、あの夜だった。


 詩は生業にはならず、わたしはごく普通のOLになって、ごく普通の結婚をし、ごく普通の母親になったが…(「奥様は魔女」のオープニングじゃないけど)。

 でも矢沢宰と出会ったおかげで、わたしは今でも詩を書いている。
矢沢宰と「光る砂漠」のことを書こうと思うと、気持ちの方が先走ってしまって変に饒舌になる。こうやって書いていても、何を書こうとしていたんだっけ?と、思考がまとまらない。
好きな人の前に出たら、肝心なことがなにも言えなくなってしまう中学生みたいだ。

(すこし頭を冷やそう)

 矢沢宰は1944年、父親の勤務先であった中華民国江蘇省に生まれた。8歳の時にすでに腎臓結核を患い右腎を摘出している。
そこから21歳で病没するまで健康に恵まれなかった。
短い人生のほとんどを病院のベッドで過ごしたと言ってもいい。

 晩年近くになってやっと高校進学を果たすが、左腎に結核が再発、劇症肝炎を併発し、文芸部に所属した高校の卒業を待たず、再入院。
絶筆「小道がみえる」をノートにのこして世を去った。


 矢沢の母レウさんが2篇の詩を毎日新聞に送ったのがきっかけで、当欄選者であった詩人の周郷博氏の目にとまり、氏の手によって一冊に編まれたのが「光る砂漠」。初版は1969年である。

「こぶしの花」
俺といっしょに生きてたやつも/何がいやだか悲しく散った。/山じゃ俺たちゃ 早く咲く/けれどもみんな早く散る/俺もそうなる運命だろう。
(矢沢14歳の作)


 病院に併設された養護学校を卒業し、県立高校を受験合格した18歳の詩では校庭での思いが綴られている。

「再会」

誰もいない/校庭をめぐって/松の下にきたら/秋がひっそりと立っていた/私は黙って手をのばし/秋も黙って手をのばし/まばたきもせずに見つめ合った


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 最も矢沢が精力的に詩を書いたのは16歳。「武器」のような秀作が多かった。

「武器」
ぼくは天才少年ではないから/ぼくの持っているものだけを/ぼくにあうように/つまみだせばいいのさ/するとそこに小さな真実が生まれる/その小さな真実を/恥ずかしがることはないのだよ/その小さな真実を/どっこいしょ!と背負って/旅をすればいいのさ


 その後20歳を迎えるころの作は、若さと達観がないまぜになったような不思議な魅力を感じる作品が続く。
彼が少年から青年へと苦しい脱皮をしたあとの、瑞々しい痕跡ともいえる詩語。

「小道がみえる」
小道がみえる/白い橋もみえる/みんな/思い出の風景だ/然し私がいない/私は何処へ行ったのだ?/そして私の愛は (絶筆)


 矢沢宰が詩を書き始めたのが14歳。わたしが矢沢の詩集を偶然読んだのが14歳。
詩集の作品は、当時のわたしからすれば自分より年嵩の青年の書いた詩であった。
いつか矢沢宰のような詩が書きたい…そう思いながら…。気づけば矢沢の享年の3倍に迫る歳月を生きてしまった。

今のティーンエイジャーが矢沢の作品と出会う現場を目撃したいなぁ・・・。
彼と対話して、生きる喜び、その手触りを感じて欲しいと(おばさんになったわたしは)思います。

 今回は無駄な話も多かったブックトークでしたが…
同じく夭折詩人の山田かまちや岡真史とは、また違う時代を駆け抜けた少年矢沢宰の、初夏にきらめく風のような詩群をどうぞ味わってみてください。

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