教育における個別最適化について考えてみる
教育の個別最適化というキーワードを見て思い出したこと
教育の個別最適化って難しいな、という体験を私は約20年前に既にしていた。
あの体験は、教育の個別最適化に関する私の原点。
当時は誰かに語ったかもしれないけれど、そのあとはもうあまり語ることはしてこなかったけれど、実はずっと考えていた。
今でも答えは見つからない。
でも、最近「教育の個別最適化」というキーワードを見かけるようになってきたのでここに書いておきたくなった。
今までと同じでいられない教育現場
「教育の個別最適化」というキーワードが一般的に世の中にあふれ出したのは、令和3年3月に文部科学省が「学習指導要領の趣旨の実現に向けた個別最適な学びと協働的な学びの一体的な充実に関する参考資料」を出したころからだと思われる。
GIGAスクール構想が打ち出されたあとの、新型コロナウイルス感染症の感染拡大。
これほどまでに、教育現場にインパクトを与えたことがここ最近あっただろうか。
少なくともこの時期を境に、「これまでとは同じではいられない」という空気をもたらしたのは間違いではないだろう。
個別最適化は本来普遍的なテーマ
ただ、教育の個別最適化ということが求められるようになったのは今に始まったことではない。
これは、本来は普遍的に扱われるべきテーマだと思う。
なぜなら、人は一人として同じではないから。
それぞれにとっての学びについて適した時期、適した量、適した方法、があるはずなのだ。
学習指導要領では、「何を学ぶか」「いつ学ぶか」ということが書かれている。
しかし、一人ひとりが「どう学ぶか」ということは、なぜかこれまであまり触れられてこなかった。
個別最適化についての私の体験
しかし、特別支援教育は少し違う。
私は、大学で障害児教育を専攻していた。
ちょうど「特別支援教育」という言葉が出始めたころである。
あの頃私が学んでいたのは、「特別なニーズのある子どもたち」への教育である。
「特別なニーズ」とは、学ぶことに関連することなら何もかもひっくるめて支援していくという考えが基本にあったように思う。
それは、障害はもちろん、家庭環境、経済的要因、そして学び方それこそ何でも支援の対象に入るはずだった。
でも、未だにそれは達成されていないどころか、特別支援教育はいつのまにか狭義的に解釈されてしまっている。
私は、教育実習で養護学校の重度重複と呼ばれるクラスに入った。
そこには最重度の知的障害に加えて、身体障害もある子たちがいた。
身体障害も肢体不自由だけではなく、聴覚障害や視覚障害のある子もいた。
この子たちが同じクラスで学んでいた。
明らかにこの子たちは、それぞれに「特別なニーズのある子どもたち」だった。
教育実習では研究授業がある。
実習生が指導案を立てて、準備をして、実際に授業を行うのだ。
地域の学校の通常学級では、学習指導要領があるし、教科書がある。
しかし、特別支援学校では基本的に教科書を使わないことも多い。
目の前にいる子どもたちに合わせて授業をしていた。
この時期のこの子たちにどんな学びが必要なのか、どんな学びか最適なのか、それを考えていたら、出したこともない知恵熱が出た。
個別最適化を考え続けていく
まずは、この資料を読み解いていくこと、これに尽きるんだろうなと思っている。
今さら、約20年も前の教育実習中に感じた困難を解決する必要はないのだけど、これを考え続けていくことは私のライフワークなのかもしれないとさえ思うほどこの体験が頭を離れることはないのだ。
私が教職に就くことはなかったけれど、実は大学卒業後も「特別なニーズを必要とする子ども」たちにはたくさん出会う現場にいた時期もある。
そしてその現場を離れた今でも、また新しく出会う子どもたちがいる。
本当に、子どもたちと出会うのは苦しくて楽しい。
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