ある「まち」の話(vol.5)
崩壊は静かに始まるもの
今ここにあるものが静かに消えていこうとしている。
それに気づいているのかいないのか。
はたまた気づかないふりをしているのか。
来るもの拒まず去る者は追わず。
それってただ消費しているだけではないだろうか。
このまちのために、と思っている人のことすらもそんな扱いを、知らぬ間にしてしまっていることが、残念ながらこのまちではよくあることだ。
そんな場所に誰が残るというのか。
既に崩壊へのカウントダウンは始まっているのかもしれない。
寄ってたかって寄りかかる
「あの人に相談したら何とかしてくれるよ」
「あの人がやるんだから大丈夫でしょ」
「あの人にまかせておけば安心だよね」
ちなみにここに出てくる「あの人」は全て同じ人を指している。
一生懸命このまちのことを考え、提案して、行動する人が現れてくれる。
とてもありがたいことだ。
でもしばらくすると、「あの人」はいなくなってしまう。
どうして誰ともうまくやっていけないのか。
なぜ、「あの人」たちはこのまちのことを手放してしまうのか。
ファンにはなれても仲間になろうとしない人たち
この「まち」の人だってこの「まち」を何とかしたいと思っている。
でも、「あの人」とパートナーシップを築くことができない。
この「まち」のことは確かに自分ごとではあるけれど、どこか他人ごとなのだ。
自分が被る不利益は「自分ごと」、でもこの「まち」を変えようとする力は自分にはないと思い込んで、どこかこの「まち」の変化を他人任せにしようとしてしまっているのだ。
だから、この「まち」を何とかしようとしてくれる人は、ヒーローであり、自分たちはヒーローのファンになることはあっても、対等なパートナーになることは考えないのだ。
そのヒーローが対等な仲間を求めていたとしても。
「あの人」は何でも屋ではないのだけど
「もっと若い人に参加してもらうためにはどうしたらいい?」
「自主財源ってどうしたらいいの?」
「SNSの発信ってどうやるの?」
全てを「あの人」に聞きに行く。
全て答えてくれるから。
でも、「あの人」が全てを答えられるのは、全て検索したら出て来るレベルのことだから。
本当は、そうじゃなくてもっと本質的なことをやりたいのだろうけど、誰もそんなことは理解してくれなくて、都合のいいことばかりさせられて、当初のパッションは消費し尽くされていく。
貪り食っている自覚を持てるか
目の前の「あの人」が本当に実現したいことは何なのか。
真剣にそのことと向き合って話を聴いただろうか。
この「まち」を何とかしてくれる、その一点だけに縋ってはいないだろうか。
自分の見えている、考えている範囲だけのことに「あの人」の行動範囲を無理やり当てはめて、窮屈に縛り付けていないだろうか。
小手先の目新しいトピックに取組む手段として扱ってはいないか。
そして、それを食いつぶしてはいないだろうか。
まずは、「あの人」と対等に仲間になること、これを意識しないことにはいつまで経ってもこのループからは抜け出せない。
自分の姿勢を正して足元を見つめ直す
この場所の崩壊は既に始まっている。
それでも、この「まち」を何とかしたいと思って行動する人がまだ現れてくれている。
その人と本気で向き合って、本気で何ができるのか。
この「まち」の人が、その覚悟を持つことができればまだこの「まち」は変わることができるはずだ。
続きはまた今度
確かにこの「まち」はないものが多いし、人の流出は止まらない。
それでもこの「まち」のことを想う人はまだ消えていない。
その人たちがいるうちに本気にならなければ、本当にこの「まち」の未来はなくなってしまう。
この事実に気が付いて、少しだか風向きが変わってきたかもしれない、と思うことがないことはないのだけど、この続きはまた今度。
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