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オレンジに透けている




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 石を送り迎えすることにした。多摩川と私との間で。


 先日、多摩川に石を拾いに行った。大学の課題のために。課題の内容は8ページ以上のブックレットの作成で、そのテーマとして「石」が提示された。ブックレットというものが何なのか私にはよく分からなかったが、講師に説明を求める胆力もないので、私は多摩川に行くことにした。行くことにしたといっても私が決めたわけではなく、「多摩川に石を拾いに行こう」という友達の提案に便乗した形になる。能動的な姿勢が欠如した自分にはこういう友達の存在はありがたい。自分の悪い所は、したくないことははっきりしてる癖に最終的な決定をするとなると、途端に重心が後ろに下がる所だ。マクドナルドでセットドリンクを聞かれた時に立ち尽くしている男を見かけたら、私だと思ってくれていい。

 とにかく石。今必要なのは現実の石だ。私はそう強く思っていた。むしろそれ以外のことは何にも決まっていなかったので、そこに全体重を乗せるしかなかった。立川のマクドナルドで朝マックのセットを買ってから多摩川に向かう。セットドリンクは結局スプライトにしてしまった。本当はファンタが良かったのだが、店員さんに目を向けられた途端になにも分からなくなってしまったので、スプライトを口走った。スプライトが一番発音しやすかったからかもしれない。とにかく多摩川に向かった。立川駅からモノレールの路線に沿って真っ直ぐ歩いていく。よく晴れていて暑かった。いい天気というよりは暑かった。



 なんやかんやあって、20個ほどの石を拾うことに成功した。特に明確な基準も美意識もないままに拾った石をマックで貰ったビニール袋に入れる。大きめの石もあったので持ってみると結構重たい。ビニールの持ち手の部分が食い込んで、腕が赤ちゃんみたいになった。赤ちゃんの腕から戻らなくなったら嫌だなあと思ったので、少し石を減らし、結局11個持ち帰った。



①今回持ち帰った石の中では一番かっこいいと思っている。皿のようなシャープな造形もさることながら、黄土色の砂がつけたグラデーションもいい味を出している。クールだ。

②これは色が綺麗。緑青色とでもいうのだろうか。乾ききった河原で拾った石のはずなのに、山中に流れる川が目に浮かんでくる。

③形のメリハリが評価ポイント。なだらかな丸みとそれをまるで意に介さない欠落。ショッキングにも見えるがそこに浮かんでくる輪郭はかくも美しい。

④えーとこれは、しましま模様がかわいい。形もおにぎりみたいでかわいい。

⑤2個目の石の片割れだと思う。色は同じだが少し小さく、形がブーメランみたい。

⑥うずらの卵みたいだなって思いました、砂がたくさんついてるので出来れば触りたくないです。

⑦うーん、白い部分が拾った時は綺麗に見えたのですが、今はガムにしか見えません。

⑧長くて丸いです。

⑨マクドナルドあるある 子供が走っている

⑩これは甘いお菓子みたいだと思ったのですが、友達に言っても全く共感されませんでした。 

⑪あなたが思うより健康です




 石を眺めているとなんだか愛着が湧いてきた。しかしその一方で罪悪感も覚えていた。それは、私が今行っていることは一方的な搾取にほかならないのではないかという疑問から立ち上がった罪悪感だった。それぞれの石たちが長い道のりを経てたどり着いたであろう居場所から、「綺麗だから、なんか可愛いから、ながくてまるいから」というようなあまりにも無邪気な理由で連れてきてしまった。石たちは今私の手の中にある。悪意ではない。それは確かなことだが、むしろ悪意によるものよりももっとグロテスクな関係性が結ばれようとしているのではないかという予感がした。例えば石に抱いた感情が好意だったとして、ポジティブな愛情表現として「居場所から引き離す」という暴力に限りなく近い行為が行われていたとしたら。

 手離さなければいけない。もう取り返しのつかないことを少しでも取り返す為に、石を元の場所に戻さなければいけない。反射的にそう思った。

 ちょ、ちょっと、待つでゴンス。私の頭の中のアオベエが私を呼び止める。なぜだろう。いや、実際のところ私は石を手離すことを口惜しく思っている。だってせっかく見つけた綺麗な石、せっかくの石を、元の場所に戻す?なんで?もったいないよそんなの。あの日の朝マックはどうなる?不本意だったスプライトは?帰り道の途中で買ったチョコモナカジャンボは?湿気っていて、噛んだときはサクサクとは言わなかったけど、美味しかった。でも、石を連れてきてしまったのは私だ。そんな子供じみた葛藤。しかしその葛藤を突き放せるほど私は大人ではなかった。

 こうして私は石を送り迎えすることに決めた。石の居場所である河原と私のリュックサックを往復する。石を河原に持っていって、石がもともと置いてあった場所(私が石と出会った場所)にもう一度置いてくる。後日、同じ石を迎えに行く。石を置いた場所に、石がまだそこにいてくれることを願って。そうやって関係性を曖昧にしたままで私は石と過ごすことにした。これは私のわがままだ。初夏の風は、まだ冷たさを残していた。


















5月26日(木)

 石を送りに行く最初の日。立川駅南口には、曇りの日だというのにうるさいバイクが走っていた(うるさいバイクを俺は許さない)。モノレールに沿って歩いていく。目的地まではまったくの直線なので先を見据えると果てしなく感じてしまうが、モノレールの車体にプリントされた可愛らしい動物たちに元気をもらう。ライオンが特にかわいかった。









目的地の河原に着くと、あの日と変わらない(ように見える)雑然とした風景が広がっていた。五時半を回り、あたりが薄暗くなってきている。私は早速、先日石を拾った場所を探し始めた。目印がある所の方が次来るときに探しやすいかもしれないとも思ったが、失礼な気がしてやめた。だから写真もむやみに撮らない。写真は写真で、石ではないと思ったから。次に会うときは、ちゃんと石自身のことを(何よりも真っ先に)見つけたいと思った(そもそも石と雑草しかないこの場所に目印になるものなんて一つも無いのだが)。石に一旦の別れを告げるのは切ない気持ちになったが、次に会えた瞬間に期待する気持ちも同時にあった。歩き回っていると場所の見当がだいたい付いたので、石を置いてみた。しゃがんで、ビニール袋から石を取り出す。かさかさと擦れる音が大げさに聞こえる。最初に置いたのは、縞模様のおにぎりと丸くて欠けたやつと、一番好きだったお皿のような石、の三つ。綺麗な色の石が集まってる場所があったので、そこに置く。薄い黄色の少し大きい石に寄り添わせるようにして。三つの石を置いて立ち上がって見てみると、思ったより不自然で意外だった。石が緊張しているようにも見えたし、こんなに緊張した石ならすぐに見つけられると思った。自信を持って、また迎えに来ると約束できた。



 他の石もそれぞれの場所に返したあと、もう一回全部の石を確認してから帰ろうと思った時に、異変に気づいた。もうすでに忘れ始めている。石はすでに落ち着きを取り戻して、この河原と打ち解けあっていた。四方を見まわしてみても石の姿どころか場所の見当さえ付かなくて、さっきまでの石を侮り自身の観察を過信していた自分がすごく恥ずかしくなってきた。がんばって探したら最初に置いた石は見つかったが、その時に思いっきり喜んでしまったのも情けなかった。前提なのだ。石の場所が分かるのは。こんな短いスパンで再会してどうする。別れはこれからだというのに。




 もう、とりあえずこの場所を後にすることにした。「石を元の場所に返す」という今日の目的は達成されている。「石にもう一度会い、持ち帰る」は後日行うことだ。今日のところは帰ろう。そうやって自分を納得させてから、私は河原に背を向けて歩き始めた。石から目を離した途端に寂しくなった(次々と忘れていってしまう気がした)が、足を止めるわけにはいかない。土手の上から見た河原は石の一粒一粒はとても見えなくて、グレーの絨毯がぼんやりと広がるだけだった。ここのどこかに自分が置いてきた石があるとはとても思えないくらい、多摩川は果てしない。ただ、私は確かに石に触れて、再会を約束した上で、この場所に置いてきたのだ。ただ置いてきたのとは訳が違うその事実は、私の胸をあたためてくれる。まだわからない、まだわからないのにすでに確信している。絶対にもう一度、私たちは出会える。























5月27日(金)

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 めちゃくちゃ雨なんかい。

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ウワーッ

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 冷静になる前にモノレールに乗って、状況を確かめにいく。冷静になってしまったらもう何もしたくなくなりそうだったから。ただ、いきなり土手に行くのは流石に危険だと判断したので(そこの冷静さはまだあった。というかそういう冷静さを無理やり呼び起こしてくるようなひどい雨だった。街全体がウォータースライダーになってしまったといえば聞こえはいいが、私の靴はすでに手遅れである)、まずはモノレールで遠くから様子を見ることにした。ちょうど駅から駅に向かう間に多摩川を横断するモノレールは、雨から逃れてきた人々でごった返していた。私は窓際に立ち、モノレールが多摩川の上を通過するのをiphoneカメラを構えながら待っていた。そして祈っていた。どうかせめて、石と別れたあの河原は。私と石が会うためには、会うための場所がいる。それがあの多摩川で、あの河原で、あの石の傍で。私たちの約束には必要なものはすこししかない(わたしと石があの場所にいればいいだけ)。





 無理なんかい。写真ではうまく写っていませんが、河原の形の濁った池になってました。というかまあそうだろうね、だって白すぎるからね、空。



 何となく納得がいかなかったので、自分の足でも行ってみて見てみることにした。あんなにあっけない終わり方はないだろうと。好きなボクサーが試合に負けるのを液晶越しに見ているだけの子供とは違う、はずだ、少なくともつい先日二十歳を迎えた。ピカピカの成人男性の靴は、水を吸い込みすぎて泡立っていた。靴は濡れすぎると泡立つのだということを初めて知った。足の裏から水が出たり入ったりする感触は不愉快だったが、今はそれよりも河原にたどり着くことが重要だった。多摩川の向かうまでの道のりは、私の腰から下を否応無しにビチョビチョにした。背負っていたリュックから水が滴り、尻に伝わっていく。リュックの中に入れた本やパソコンのことは、もう考えたくなかった。橋が見えてきた。



 結果から言うと、私は橋を渡り切ることは出来ず、それはつまり河原にたどり着くことが出来ず、行きよりも更にビチョビチョになったジーンズを引きずりながら帰路に着いた(私はラッパーではないので過去もジーンズも引きずりっぱなしである)。引き返すことを決めたのは橋の中腹まで行ったところで、そこから見た河原に以前の面影はなく、ただただおおきな泥水が河原分の面積を占めていた。その泥水は川に流れていくのをやめない。流れは、石をどこか(私の手の届かないところ)にやってしまうだろう。私は息を吐いた。いったいなんだったんだと言う気持ちになり、なんだこれという気持ちで後ろを向いて、帰った。これからのことを考えようともしたが、私がしたかったのは「送り迎え」であり「捜索」ではないので(私の中ではこの時点で石に会うことはもはや絶望的だった)、石が明日もそこにいることを祈るしかなかった。こういう時は祈るに限る。

















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