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ホログラフィーは私にとって学校のようなものです。  

石川光学造形研究所 石川 洵

石川 洵(いしかわ じゅん)氏 ご経歴
1946年生まれ。69年,早稲田大学第一商学部卒業。同年,日産自動車(株)入社。82年,石川光学造形研究所設立。88年~92年,多摩芸術学園非常勤講師。89年,石川光学造形研究所を有限会社に改組 代表取締役に就任,そして現在にいたる。 日本ディスプレイデザイン協会,日本バーチャルリアリティ学会,日本映画テレビ技術協会などに所属。

ホログラフィーとの出会い

 これまでホログラフィーの製作や立体表示装置の開発といったエンジニアリング的な仕事を行ってきましたが,実は私は早稲田大学商学部出身なのです。
 子どもの頃から車が好きだったこともあり,大学を卒業して就職したのは,自動車会社でした。配属先は資材購買部門で,以後ホログラフィーをやるようになるまで一度もエンジニア的な仕事をやったことはありませんでした。
 資材購買の仕事は結構面白く,その頃は自動車産業のみならず日本が急成長していた時代だったこともあり,世のご多分にもれず出世街道を進むべく頑張っていました。しかし,入社して何年かたち仕事にも慣れてくると,レールの上を進んで行く人生に何となくむなしさを感じ始めていたのも事実でした。これは誰でも1度はかかる病気のようなものかもしれませんが,私はそんな時にホログラフィーと出会ってしまったのです。
 題名は忘れたのですが,ある科学雑誌のなかにホログラフィーの記事があり,たまたまそれを読み,非常に興味をそそられたのです。そのようなことがあって,しばらくして東京の新宿にある伊勢丹美術館で「世界のホログラフィー展」が開催されることになり,ホログラフィーとはどんなものか興味津々で見に行ったのです。
 この展示会は有名な坂根厳夫さんが企画され,非常に面白いものでした。こんな世界があったのだと改めて知り,「これをやらなければ損をする」と,その時直感的に思ったのです。そこで,まずとにかく自分でやってみるのがいちばんと思い,無謀にもホログラフィーの製作を開始したのです。
 私は根っからの文系人間でしたから物理学の専門書を読むことは思いつきませんでした,そこでどうしたのかというと,当時「日経サイエンス」でホログラフィーの特集があり,記事のなかにホログラフィーを作成している写真が1枚掲載されていたのです。その写真を頼りに機材を集めて,無い物は自分で作り,まったく手探りの状態で,90 cmのプレート上にホログラフィーの光学系を作ってみたのです。  最初の1枚目は失敗しましたが,2枚目には成功しました。それで「意外と簡単じゃないか」と思ってしまったのです。これは,たまたま上手く行っただけなのでしょうが,そこは文系の楽観的なところで,それがきっかけでホログラフィーの世界にのめり込んで行ったのです。
 この時はまだ,会社に勤めていましたので,ホログラフィーはあくまでも趣味で,休みの日に自宅のガレージを使って製作していました。
 最初の頃に作製したのはフレネルホログラムです。フレネルホログラムの再生にはレーザーを使う必要がありますが,フィルムが安くて比較的簡単に作ることができたのです。しかし,やっているうちにフレネルホログラムだけでは物足りなくなり,まだあまり知られていなかったレインボーホログラムなどにも挑戦しました。
 その当時,大学の研究室でホログラフィーを研究されている方は多数いましたが,趣味の世界でアート的なことをやっている人は皆無だったこともあり,1979年に船橋西武百貨店で開催された「3D展」に作品を出展させてもらうことができたのです。それがきっかけで世界が大きく広がり,その翌年には個展を開いたりもしました。
 その頃から,ホログラフィック・ディスプレイ研究会(HODIC)の方達ともお付き合いするようになり,最新の情報も入ってくるようになってきました。

ホログラフィーカメラの作製


 実は,私がホログラフィーを見て心をひかれたのには理由が2つあります。1つは小学生の頃からカメラが好きで,高校生の時には写真部の部長もしていたことがあり,写真の知識があったことです。
 2つ目は,子どもの頃に叔父さんに連れられて見に行った1956年公開の「禁断の惑星」というアメリカ製のSF映画にあります。
 この映画は知る人ぞ知る名作で,劇中にはロボットを始めとして,未来の装置が多数出てきますが,そのなかの1つに透明な半球状の内部に立体像を映し出す装置があったのです。この映像が子ども心に印象的で,ずっと頭の片隅に残っていたのです。それで,ホログラフィーを見た時にこの技術を使えば実際にその装置ができるのではないかと思ったわけです。
 しかし,さすがに映画に登場するような装置を開発することは不可能ですので,写真好きだったこともあり,それならホログラム撮影用のカメラを作ってみようと思い,自宅の ガレージで作製を始めたのです。
最初に作ったのは,8×10インチのレインボーホログラム用の90 cm角のコンパクトなボックス型のカメラでした。
 このカメラは自分でも結構気に入っており,実際にホログラムを撮影したりしていたのですが,ある時これを製品化できないかと思いついたのです。当時,世界でもアート向けのホログラフィー撮影用のカメラは販売されておらず,製品として売れればホログラフィーの普及にもつながります。
 しかし,まだその頃は会社勤めをしていましたので,あまりおおっぴらにもできませんし,力もありませんでしたので,どこかスポンサーになってくれるような会社を探すことからまず始めました。
 いろいろと調べた結果,中央精機さんならいいのではないかと思い,当時社長だった堀田さんにそのことをお話したのです。そうしたら,早速堀田さんがそのカメラを見に来られ「すごいものを作っているな」とおっしゃられ,感心して帰られたのです。
 このカメラは,残念ながら製品化には至りませんでしたが,独立へのきっかけとなりました。

独立へ

 そのようなことで,中央精機さんと縁ができたわけですが,ある時堀田さんに,「マルチプレックスホログラムをやろうと思っているのだが,その手助けをしてくれないか」と声をかけられたのです。
 マルチプレックスホログラムは,「世界のホログラフィー展」でもっとも私の興味を引いたものでしたが,実のところどのようにして作るかは知りませんでした。
 マルチプレックスホログラムというのは,水平に360˚ どの方向からも見ることができ,さらに動きも見られるホログラムです。
 作製は,回転台に乗った被写体が1回転する間映画用のカメラで連続撮影することから始めます。次に,ホログラフィーの合成装置を使い,撮影したフィルムを1コマずつ約3000回,1枚のホログラフィー用のフィルムに記録して完成となります。
 実際やってみると,この記録のメカニズムが意外に難しいものなのです。
 この堀田さんからの依頼には,正直いって悩みました。なぜかというと,さすがに会社勤めと,趣味の範囲を越えた仕事の両立は難しいものがあったからです。
 また,実を言いますと,このお話がある何年か前から会社を辞めてホログラフィーで食っていけないかと,考え始めていたのです。
 あくまでも趣味でホログラフィーをやるのであれば,お断りしていたでしょうが,そのような気持ちがあったことから,これは独立への良い機会だと思い,清水の舞台から飛び降りる気持ちで,「石川光学造形研究所」の設立を決心したのです。
 今の時代ですと,脱サラというのは珍しくもなくなりましたが,われわれの時代は終身雇用という不文律があり,脱サラは敗者のようなイメージで見られたりして苦労したりもしました。
 中央精機での仕事は約半年間でしたが,なんとかマルチプレックスホログラフィーの合成装置の開発に成功しました。この装置は,本格的な合成装置としては世界初ではないかと思っています。
 堀田さんからは,「せっかく作ったのだから,この装置を使ってもいいよ」とおっしゃっていただき,多くの作品がこの装置を使って生まれることとなりました。
 堀田さんには物心両面でお世話になりました。実際のところ,今でもお世話になっているようなところもあります。
 私がマルチプレックスホログラフィーの合成装置を開発した狙いとしては,ホログラフィーが一般に普及して,町の写真屋さんでも簡単に撮ることができ,ホログラフィー撮影用のカメラや合成装置の需要が増えることで堀田さんに恩返しができればと思っていたのです。残念ながら現在まだそのような状況にはなっていませんが,夢を捨てたわけではありません。

ホログラフィーを取り巻く現在の状況

 ホログラムは新札にも採用され,より身近なものになってきてはいますが,その反面,本来の姿が忘れられ,模様が変わる偽造防止用シールとしてイメージが定着しつつあります。そのため,マルチプレックスホログラムや平面のホログラムを今の若い人に見せると新鮮なためか驚かれるので,逆にこっちが驚いて,「ああ,知らないんだ」と,どこか寂しい気持ちになったりもします。
 セキュリティー用以外のホログラフィーは,20世紀末以降どんどん退潮している状況にありますが,そうなってしまった原因というのは,作り手と受け手のミスマッチがあったのではないかと思っています。  ホログラフィーで,われわれ作り手が提供できるものは,完全な立体写真といったジャンルのものです。
 一方で,受け手の人たちが何を期待していたかというと,スターウォーズなどのSF映画に登場してくるような,立体動画を空間に浮かび上がらせるようなものであり,その食い違いが今日のホログラフィーの衰退の原因ではないかと思うのです。
 ポートレートなどの静止画を完全な立体でしっかりと撮影する手段としては,ホログラフィー以上のものは今のところまだないと思いますので,その辺りから再度切り込んで行ければと考えています。
 1839年に最初の写真ができて,一般に普及するまでには100年近くかかっていますから,ホログラフィーの普及も時間がかかるのは当たり前なのかもしれません。
 余談ですが,私が小学生の時に,「10年もしたら壁掛けテレビができるよ」とか「腕時計型の無線電話ができるよ」といった話を聞いていたのですが,実際にわれわれが使えるようになるまでには40~50年かかっています。
 技術というものは,先が見えていて,このようなものがあればいいというニーズもあり,シードがあったとしても,実際にその技術なり製品なりが“こなれて”一般に普及するには時間がかかるものだと思っています。
 ただ問題なのは,どのようにして技術を伝承して行くかですが,やはり技術は人が伝えて行くものですから,ホログラフィーをやる人をどんどん育成しなければいけないと思います。では,どのようにしたら人が育つのかということを考えた場合に,その鍵はアートの世界にあるのではないかと思っています。つまり,ビジネスとしてやるには難しい状態ですが,何かの表現手段としてホログラフィーを考えた場合,これは非常にユニークで面白いものといえます。

後進の育成

 そのような考えもあり,一時期多摩美術大学の非常勤講師をやらせていただいたことがあります。
 そのきっかけというのが,多摩美大にホログラフィーの指導を熱心に続けておられる勝間ひでとし先生という方がいて,先生のところによく遊びに行っていたのです。そうしたある日,勝間先生から「実習をやる教員の数が足りないから手伝ってくれ」とお誘いを受けたのです。私としては,願ったり叶ったりでしたから2つ返事でお受けし,非常勤講師として多摩美大でホログラフィーの作製を教えることになったのです。
 また,多摩美大では映像コースの檜山先生や卒業生の村穂さんたちと一緒に,音声まで入れたホログラフィーアニメーションや,実写のホログラフィー映画の作製などを共同で行い大きな成果を上げました。

立体映像表示装置の開発

 これまでホログラフィーを中心として仕事をやってきたわけですが,現在メインでやっている仕事は展示用の映像装置や立体映像表示装置の開発です。
 実は,これらの表示装置はホログラフィーの面白さはどこにあるのかということを分析して開発しており,これまでやってきたホログラフィーとまったく関係のない仕事というわけではありません。
 例えば,テーブルタイプの空間映像ディスプレイである「Mini Live Theater」にしても「水晶球ディスプレイ」にしても,先ほどお話したSF映画に出てくるような立体映像をホログラフィーという手段にとらわれずに投影できないかと考えて開発したものです(図1~図3)。
 ホログラフィーの時は,何から何まで自分でやる必要がありましたが,電子画像ベースの立体映像表示装置では,液晶などのデバイスサプライヤーがたくさんありますから,それらの企業の優秀な製品を利用して仕事ができる点では非常に楽になったといえます。
 これらの装置は,博物館やテーマパークなどの,展示物のなかに映像を取り込んでいくような施設で需要があり,開発したものをご覧になった方もいるかもしれません。



図1 「ミニライブシアター」テーブル上に動画空間映像が立ち上がって表示される展示映像装置


図2 「水晶球ディスプレイ」ムクの透明球体の中に動画映像が表示される展示映像装置


図3 「Chatty」映像装置を組み込んだ「話すマネキン」

映像のユビキタス

今後の事業展開として考えている分野のキーワードに「ユビキタス」があります。
 一般的なユビキタスについての言葉の意味は,いつでも,どこでもコンピュータとネットワークを利用できる環境のことをさしますが,私は表示装置といった切り口からユビキタス市場に参入できればと考えています。
 ユビキタスが実現すれば,映像のシームレス化が起こるのではないかと思っています。どういうことかというと,日常生活のなかで接するものに映像がどんどん入り込んで来ることにより実態と映像が混在する社会が来るのではないかと思うのです。
 例えば,部屋の壁が表示装置になっていて,自由に壁のデザインを変えられたり,空間に壁の映像を投影することで,あたかも壁があるようにしたりというようにです。
 つまり,テレビのようなディスプレイに映し出された映像を意識して見るのではなく,環境の一部として映像は存在し,各種のインフォメーションにしてもモニター画面を意識することなく見ることができるといった具合にです。
 ユビキタスに関しての取り組みはまだ始まったばかりで,実際にこれからどうなるか予測はつきませんが,案外ホログラフィーの技術が役にたつのかもしれません。

次世代を見据えて

 2005年になり,ホログラフィーを始めて四半世紀が過ぎたことになりますが,最初の頃に比べて環境は大きく変わりました。現在メインの仕事は立体映像表示装置の開発ですが,ホログラフィーは私にとって学校のようなもので,そこから得たものがたくさんあります。
 ものごとには流行・すたれがあり,その繰り返しですから現在の状況もいたしかたないといえます。しかしながら,いつかブームが再び起こると個人的には思っていますので,今後の仕事に関してもどこかにホログラフィーというポジションを残して行きたいと考えています。

(OplusE 2005年5月号, 498~502ページ掲載)


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