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ホログラフィーアートは世界をめぐる  第2回 不完全な記憶・Encounter“出会い”

 「不完全な記憶」(図A)の最初の発表は,1978年朝日新聞主催,伊勢丹百貨店で開催された「世界のホログラフィー展-光が織りなす夢と幻想」への出品であった。
 国内ではディスプレイホログラムはほとんど試作されていない時期で,国産の展示用のホログラムの制作が,大学や企業の研究所などの各方面へ依頼された。ちょうどこの年の4月から,私は東京工業大学の辻内研究室に研究生として籍を置いていた。すでに美術学校も修了し,パリのボザールにも留学した後で,絵の世界で活動を開始していたのだが,偶然出会ったホログラフィーの不思議な魅力に惹かれ,この新しい技術をもっと学びたいと母校に舞い戻っていたというわけである。私にとって幸運であった。なぜなら,本来,芸術大学ではないので,東工大の研究室内でそもそも研究とはいえない作品制作は無理な話だ。しかし,この絶好の機会に私は大手を振ってホログラム作品の制作に励むことができた。その時の1点がこの作品である。
 ホログラフィーは,空間に3次元の虚像を浮かべる。像はそこにあるように見えるが,手でつかむことができない。この特徴をもっと強調して意識できるような展示方法を考えた末,ホログラムの虚像と実物の対比に行きついた。上部の半分のリングはホログラム像,下部の半分は実物にすると,虚像と実像が空間で出会い,完結したリングとなる。題名「不完全な記憶」の英文タイトルは,直訳にするのではなく「Encounter」“出会い”と名付けた。ちょうどこのころ封切られ,大ヒットしたアメリカのSF映画『未知との“遭遇”』の原題が『Close“Encounters”of the Third Kind』と知ったのはずっと後のことで,「Encounter」は偶然の一致だったことを一言。 ホログラムは25 cm×30 cmのフィルムに記録した。図A-1は,伊勢丹での展示の後,ホログラフィーによる初めての個展の会場風景であるが,ご覧の通りアクリルチューブの半分の輪がアクリル板を貫通し,全体で立体作品となる。この奇妙な形の作品については,展示準備中から,そして会期中も「なんだ? これは?」といった,声にならない声が私にまで届いていた(笑)。


 翌1979年,箱根彫刻の森美術館が主催の「第一回ヘンリームーア大賞展」と題する野外彫刻のコンクールがスタートした。
 無謀にも私はこのコンペに応募し,そして,なんと首尾よく入選してしまい,実物を制作しなければならない羽目に陥ってしまった。
 このコンクールには,高額な賞金が掛けられていた。コンクールの魅力は,グランプリの賞金額である程度判断できる。野外の立体作品の制作費は,どんな素材であれかなり高額であろうことは想像に難くない。売れっ子作家たちでも実物の野外彫刻作品を制作できるチャンスは魅力的である。そのため,大賞を目指して多くの作家たちが応募する。このコンペはヘンリームーアを冠しているので,それまでのこの美術館の“具象彫刻のコンクール”とは異なり,実験的な現代彫刻も受け入れようとしていると思われた。
 白色再生(レインボウ)ホログラムには,太陽光は理想の再生光源である。どんなに明るい野外でも,太陽光で再生すれば明るい画像が再生される。通常のホログラムの展示では,いつも黒壁や暗室のような部屋がつきもので,そのことに大いにフラストレーションを抱いていた私は,野外彫刻でホログラムを組み込めば,これまでにない全く新しいコンセプトの実験的な環境彫刻作品が実現できるではないかと考え,このコンクールに応募を試みたのである。
 彫刻展のコンペというのは,まず,マケットと言われる縮小された模型で応募し,入選作品が審査される。入選作に選ばれると,支度金として制作費の一部となる一定額が美術館から支給され,マケットに沿って実物を制作しなければならない。そして,実物が完成した時点で,賞が審査され,受賞作品には賞金が授与されて,展覧会の終了後は常設作品として収められる。多くの場合,支度金は制作費のほんの一部の足しにしかならない。作家たちはグランプリを目指して,つい予算は二の次で制作してしまうが,これはアーティストの性といえよう。賞金はニンジンがぶら下がっているようなもので,結果的に力作が多く集まるという構図だ。
 いかにこの応募が無謀であったかというと,第一は,マケットとして「不完全な記憶」を提出したことである。マケットは大体一辺が50 cm以内の立方体に収まるサイズと決められている。この立体は,マケット用にぴったりのサイズであった。しかし,照明とワンセットに仕上げられず,傍にスポットライトを添えるだけだった。一応,説明書に,「これこれの角度で照明をホログラムに当ててください。見る位置はこれこれの場所から見てください」云々と添える。しかし,照明を当てなければ,ホログラムはただの半透明のフィルムだし,模型は変な形のただの立体に過ぎないのである。おそらく審査委員のほとんど誰も,ホログラムを知っているとは思えない。いったい,いかほどの委員が注意深くこの説明書を読んでくれるのであろうか?
 第二の無謀は,アイディアとして提出した完成作品を制作する道筋が全く見えないまま応募したことである。25 cm×30 cmのホログラムは制作できたが,大きなホログラムを制作できるめどは全く立っていなかった。
 それなのに,なんとマケットが入選してしまったのだ。私はこれには本当に驚いた。

 後でわかったことだが,このマケットの審査委員の一人である堀内正和氏(抽象彫刻の第一人者)が,ある時,私に話をしてくれたところによると,「形も変な,訳の分からないマケットがあって,他の審査委員は目もくれなかったのだが,あなたのホログラムのことは,半年ほど前の個展の時,画廊でよく話を聞いていたので,皆に『こうやって照明を当てると画像が見えるから,ここに来て,ほら見てごらん』と言って,他の審査委員にいろいろ説明してあげた」らしいのです。それで,なにか面白そうなものだということで入選になったらしい。堀内氏の言う,半年ほど前の個展というのは,その画廊は私にとって初めての会場で,もしその時,彼が画廊回りをしていなかったら,もし私が会場にいなかったら,ホログラフィーを見てもらう機会も説明することもできなかったし,興味を持って熱心に聞いていてくれたことは,ホントに偶然の出会いであった。その時,私は彼が何者かを全く知らなかったのである。
 入選の知らせは,うれしさ半分で,残りの半分は,「さて,どうしたものか」と思案に暮れた。とにかくこれは一大事である。何とかせねばと,夢中で大型ホログラムの制作実現に奔走した。
 ホログラムが新しいメディアとして,ちょうど脚光を浴び始めた時期でもあり,大学と企業が参加して,とにかく“世界最大の白色再生ホログラムを制作するプロジェクト”を立ち上げることに成功した。東工大と共同研究の富士写真光機(株)(現フジノン(株))が技術サポート,そしてNEC 宣伝部がCI(コーポレートアイデンティティ)のメディアとして,国内最初の大型ホログラムを活用することを承認し,制作実現に漕ぎつけることができた。私はというと,アートディレクターとして制作にかかわり,同時に,並行して野外作品用のホログラムを制作することが了解されたという次第だ。
 無謀な応募に始まって,ついに実現した,前衛的かつ実験的な野外環境作品「不完全な記憶Ⅱ」は,図Bおよび図B-1である。レインボウホログラムのサイズは80 cm×100 cm,上の半リングはFRPに塗装を施したもの,透明な板はポリカーボネート。ホログラムの背面には太陽光を追尾するミラーが取り付けられ,常に反射光がホログラムに照射されるように太陽を自動追尾する装置となっている。野外の展示のため,設置には地面の基礎工事を始め,芝の植え付けまで含めて数週間かかった。
 グランプリ審査の当日,実はホンネを言うと,30パーセントくらい賞を期待していた。動力や水,風を取り入れた野外作品はこれまでにもあるが,ホログラムによって太陽の光を作品に取り込み,天候に呼応して変化する,全く新しいタイプの環境作品が実現したと自負していた。ところが,結果はさんざんであった。美術館は山の上にあって天候は変わりやすく,日照時間も少ないことが分かった。審査当日も曇天。そのため,画像は全然見えなかったようだ。たとえ日が差していたとしても,ホログラムの見方を知らなければ,正面の画像に気付かないかもしれない。そもそも私の作品は,形の全体が必要な要素の集合で成り立っていて,従来型の造形美を求める制作態度とは対極にあるので,全く理解されなかったのである。

 オープニングパーティには,入選作家の他,招待作家など多彩な顔ぶれがそろっていた。二次会で私の前に偶然座っていたのが,井上武吉氏(上野の東京都美術館の一階正面に置かれている,大きな鏡面の金属球の制作者)だった。私はまだまだ若造,お酒も入り,いろいろ話を聞いているうちに,「文化庁の芸術家在外研修員制度を知っているか?
 こんな良い制度はそのうちなくなっちゃうから早く行っておいたほうがいいよ」と軽く言われた。偶然耳にした情報がきっかけで,2年後に,この制度をいただいて,1年間MITに行くことになったのである。もしこの一言がなかったら,あるいは,向かいの席に井上氏が座っていなかったら,制度も知らなかったし,MITに行く機会もなかったかもしれない。作品「Encounter Ⅱ」がもたらしてくれた,まさに“出会い”であった。
 同じ年,美術評論家の針生一郎氏がコミッショナーとなった,第15回サンパウロビエンナーレの出品作家にノミネートされた。針生氏とは面識はなかったが,現代美術の公募展に出品したホログラムのインスタレーションを見て声をかけてくれたのであった。サンパウロの現地の広い展示会場にあわせて,手持ちの作品の他,大きなホログラムのスペアがあったので,結局「Encounter Ⅲ」(図C,図C-1)を新しく制作することにした。室内用なので金属のフレームなしで,ベースからアクリルを自立させ,上部の半分の輪はFRPに金属メッキが施されている。図Cは,岐阜県美術館主催の「幻想と造形展-ホログラフィーと振動の不思議な世界-石井勢津子 佐藤慶次郎」の会場写真である。ビエンナーレのサポートは国際交流基金であったが,空輸した作品の総重量は500 kgを下らなかった。今考えれば,本当に贅沢をさせていただいたと思う。
 東京とサンパウロは,地球のちょうど反対側である。飛行機で24時間かかり,とにかく遠い。サンパウロは高原地帯で温暖な気候,ラテン文化の明るさと人懐っこさがある。日系移民のおかげで,いろいろな日本文化が根付いており,旅人には非常に居心地の良い面白い旅であった。毎日どこかの家のパーティに呼ばれていた気がする。「友達の友達は友達」といった具合である。その時出会った知人たちの中には,40年近くたつ今も親交のある友人がいる。ホログラフィーが取り持つ縁である。ブラジルには,その後も2度訪れることとなる。

(OplusE 2018年3・4月号,p.364-367,執筆:石井勢津子氏)

第1回と第3回はこちらからご覧いただけます!


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