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【短編小説】ブルーハワイ

 幾時ぶりに帰省した。地元の風は、どこか私の肌を好いてくれているように感じた。街並みは少し変わっただろうか。いつも通りの帰り道だったあの住宅街に這った蛇の道はすっかり脱皮して、曲がることを忘れていた。日没の飴色に染まった家々の真っ白もまとう衣装がグレーになっていた。しかしどれだけ歩いても、やはりここは私の街だと感じてしまうのがどうにも不思議な感覚だった。

 そういえば、あの店は残っているだろうか。と、不意に思い、散歩道を変更する。寄り道だ。私が小学生のころ学校帰りによく寄っていた思い出の喫茶店が、今行くこの道を真っすぐ行くと右手に見えてくるはずだ。少しだけ歩幅を大きくして、胸の位置が高くなる。いい歳になっても胸がじんわりと来れば必然と、体は心と同期する。どうにも、童心というものはこびりついてしまえば社会の荒波でも取れないらしい。

 子ども心の私は灯る住宅街の先の光に高揚してしまった。つい昨日にも訪れたのではないかとさえ思えた。一軒家ほどの小さな木造の、近づけば近づくほど芳醇な珈琲が時間と共に流れてくる。入り口には「OPEN」の札が掛けられていた。足はゆっくりになる。そこを開ければ今にも私の友人たちがランドセルを広げ、宿題に勤しみながらマスターが厚意でくれたアイスを頬張っているのではないか。そんな幻想さえマジックアワーに見せられてしまった。途端、喫茶店の扉が開いたと思えば中からは浴衣姿の小さな子供たちがワッとまるで手品のように駆け出してきた。「危ないよ!」と、店内から彼らの母親らしき人物の声が遅れてやってくる。何かお祭りでもあるのだろうかと、随分と地元に疎くなった私が現れると、何だかもう喫茶店には入れないなと思ってしまった。そこには思い出という頭の片隅に閉じ込めた過去があって、触れれば解けてしまうのではと、大人の恐怖心が立ち塞がった。

 結局、店内を覗くこともできずに、喫茶店は私の記憶に仕舞われた。夏の天体の高さが孤独を揺さぶる。ただそれを感じた私はどこか平然と飲み込んでいた。これが大人になってしまった私の結末、とでも子どもの私に言い聞かせたら彼はどんな顔をするのだろうか。と、私は直視しがたい現実で思い知らされた。気分が重い。澄んだ夏空に響く空蝉のファンファーレが夜を騒がしくする。私と外の乖離した空気が気持ち悪い。帰ろう、そう決心して喫茶店を左手に持ち替えようとした時、近くから盆踊りの音頭が聞こえてきた。

 やっぱり祭りがあるのだ。そしてこびりついた童心は頑固なもので、そちらへと足を向かわせた。どうにも音のする方は小学校らしい。私の踏みしめる大地が、紛れもなく通学路であったことを私の中の小さな私が呼び起こしていた。建ち並ぶ家は少しだけ建て替えられていたりと変化していたが、小学校近くまで来た時に見えた地域のコミュニティセンターは相も変わらぬ姿でそこに建っていた。耳に届く音量に比例して、鼓動もドンドン高まっていた。いつもくぐっていた門の前までくると立て看板があり、「なつまつり」と絵具で描かれていた。

 私は尻込みすることを忘れ、なつまつりの会場に入場した。入口の右手には体育館があり、その階段に座り込み友達とゲームをする中学生らしき男の子や、正面には親と手を繋ぎながらもう反対の手でわたがしを持つ浴衣姿の小さな女の子、それから先ほど見かけたあの小学生らしき彼らもそこにいた。私は視線をまっすぐに戻し、その先に広がる校庭には提灯が糸で吊るされているのがぼんやりと見えた。校庭に小さく近づいていくと、その提灯が盆踊りの舞台を中心として蜘蛛の糸のように張られているのが分かった。

 校庭に降り立つと、お祭り会場には今流行りの曲が、私が通っていた頃と変わらないガビガビの音質のスピーカーから流れていた。校舎へと繋がっている屋外通路には関係者以外立入禁止を示すテープが張られていた。小学校にしては広めの校庭のはずなのに、ところ狭しと人で溢れ、服装にはちらほら甚平や浴衣を着ているのが見られた。そして皆、手にはわたがしや屋台の景品であろう水鉄砲やら光るおもちゃ、風船で形成されたゴム製の剣などあったが、当の私はあてもなく、ただボーッと手ぶらで来ただけで場違いなように感じた。

 久しぶりに見た母校の風景は少しだけ淋しく感じてしまった。当時あった遊具は残っていたものの、色は塗り替えられていたり、またあちこちは当たり前のことだが古ぼけてしまっていたのだから。その淋しい母校の今に、どうにも、今より遠い私は勘違いをしていたことに気がついてしまった。あの頃信じきっていた未来の母校は未来ではなく、私たちの理想の中で作られた幻の虚城だったと。ポッカリと空いた風穴が涼風で明らかにされていく。黙ったまま、母校の今を過去と重ねて歩く私。ふと、そんな私の横を過ぎていった小学生らしき私服の男児の表情が目に入った。

「なんだ、彼らも私と同じじゃないか。」

文化も持ち物も違えど、彼らの目には私が一番知っている輝きが、吊り下げられた提灯の明かりで透き通った。

 ぐるりと淋しさを抱えたまま校庭を一周して、改めて、少し寂れてしまった母校の姿に郷愁を寄せた。ただそれでも一周する頃には、私の夢見た未来に通う今の彼らがいるのだと納得していた。彼らの今を、私の理想像で潰してしまうところだったと、大人の恐ろしさを自覚して、懐温かいうちに祭囃子を後にしようと校門付近に戻ると、先ほど見知った彼らはもういなかった。汗ばむ夏日の、愛しい砂混じりの夜風に背中を押されながら、私は下校した。

 何だか、いい気分だった。風穴は塞がりきっていなかったが、どこか粒さになってしまった童心が、大きな実像となって心に現れたからだ。だからこそ、私の足はその一方向にしか向かなかった。ただ戻りたくなっていたのかもしれない。忘れかけていたあの頃を取り戻すために、軽快なステップで数分、私は再び思い出がこびりつく喫茶店のドアの前で足を止めた。

 カラカラカラ…

躊躇わずにドアを開ける。

「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ。」

キッチンには自分の知っているマスターではなく、若い女性が立っていた。華奢な指先でタオルを握り、グラスを拭いている。たまたまだろうか、こじんまりとした店内には私と女性だけだったので、私はドンドン思い出を掘り返すように、あの頃座っていた席に腰かけた。

「今お水お持ちしますね。」

キッチンからハキハキとしたハリのある声が通る。

「失礼します。あ、今ですね、かき氷やってますので良かったらどうぞ。お決まりになりましたら、またお呼びくださいね。」

と、テーブルのわきにはメニューが立てられており、その先頭には確かに大きく「かき氷メニュー」と書かれているものがあった。それを手にとってパラパラと見てやると、「いちご」「メロンソーダ」「ブルーハワイ」「コーラ」「抹茶」と、5種類あるようだ。ただ私の中で何を頼むかは一瞬で決まった。

「すいません、注文お願いします。」
「はーい!」

女性店員はグラスを拭くのを中断し、メモ用紙とペンを持ってキッチンから私の席にやって来てくれた。

「ご注文、お決まりですか?」
「はい、かき氷のブルーハワイください。」
「かしこまりました。ブルーハワイですね、少々お待ちくださいね。」

と、女性店員は少し駆け足ぎみにキッチンへと戻っていき、冷凍庫らしき場所から氷を取りだして、かき氷機にかけた。そのかき氷機は、私の小さな頃の記憶のままで、また胸が高鳴った。

シャリシャリシャリシャリ…

氷が削られ、皿にフワフワと落ちていく。ジャズっぽい店内BGMとその音以外、蚊帳の外。時刻は間もなく夜の9時になろうとしていた。

 「お待たせしました!かき氷のブルーハワイです。ごゆっくりどうぞ。」

トン、と目の前に置かれた群青色の氷山。冷気が暖色の照明で目立つ。食べこぼしてもテーブルが汚れないように、ガラス皿の下にはプラスチック製の平べったい皿が敷かれていて、そこに銀色のスプーンが置かれていた。早速その傾斜を掬って口に放る。爽快な甘さがひんやりと舌を冷やしていく。小学生の頃、よく分からない名前だからと避けていた味覚が、一番夏らしさを持っていたなんて、皮肉な話だ。しかし大人ぶってそんなことを考えながらも、瞳は子どものように店内をグルグルとしていた。店内は母校と違い、何一つ変わったように感じず、とても不思議だ。

「お客さん、うちのお店初めてですか?」

半分まで差し掛かったかき氷からまた一口運んでいる途中だった。

「いやぁ、小学生の頃、下校途中によく寄り道してたんです。」
「へぇ~、そうだったんですね!じゃあ、懐かしくてって感じですか。」
「まぁ、そんなところです。」
「ってことは、うちの父の時ですね。」
「父?もしかして、マスターの…」
「はい!娘の戸倉藍と申します。まだまだですけど、今のマスターは私なんです。」
「そういうことでしたか。失礼ながら、とても若かったので、アルバイトの方なのかと。」
「あ~!よく間違われますから。」

キッチンと客席の離れた会話。時代はこうして移っていくのだなと思いながら、先ほど中断したかき氷をまた口に運ぶ。水っぽさが増してしまったが、そのブルーは色褪せていなかった。

 カラカラカラ…

一歩店の外は、生温い夏の舐めてくるような風が纏わりついてきた。淡かったマジックアワーは紫黒に落ち、蝉と共に街はすっかり大人しく寝静まっていた。何光年と先にある夏の大三角をふと見上げて、大きく息を吸ってみる。鼻に抜けてくるほんのりとした藍色が、郷愁と納得を天高く流していく。もう小学校から祭りの音は聞こえない。ポッカリと空いた心の風穴は、大人心に隠れていた童心を満足させたからか、どこにも見当たらなかった。

「…帰るか。」

またここを離れてしまうのが悲しいが、思い出の中に平らげたブルーハワイがまた懐かしさを運んできてくれるだろうと、小さな頃の俺を、私はそっと信用した。


⇑「マスター」の別の一面

ちょっとぐちゃりとなっていますが、まぁ大目に…ははは。よろしければフォローやスキ、してみてくださいね。

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