すず白ラパニス -Szshiro Raphanis-

黄金造りの侍女、痴愚神モリアの弟子、Vtuberすず白ラパニスを含む、色々の記事。

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最近の記事

西洋哲学史のまとめ——あるいは、伝統的哲学と現代哲学の違いについて

■序論(あるいは結論):違い=絶対的な価値基準のあるなし 伝統的哲学(*)と現代哲学の違いは価値基準です。  無前提での(客観的な)価値基準、そういうものを設定できると考えているかどうか。 「客観的」というのは、相手の同意がなくとも基準を判断できる、ということです。「絶対的」と言いかえてもいい。  伝統的哲学では「設定できる」と考えていた。現代哲学では「設定できなさそう」と考えている。  たとえば、こんな質問の回答。  ——正しいことの基準とは何なのか(善の基準とは何なのか

    • 『ドラゴンクエストⅣ』の〈どうのつるぎ〉が100ゴールドであることについて——価値の根拠について2

      「価値そのもの」に基づいた値段設定というのは無理だろうという話。「価値そのもの」を設定できないので、物でもサービスでも主観的な価値判断に基づく値段設定か、双方の主観の合意による——需要と供給の一致による値段設定しかあり得ないのではないか。そう言いたい。  わたしが最初にこのことに疑問を感じたのは、マルクスの価値論についての本を読んだあとのこと。どうもマルクスは「物やサービスの値段はそれらが持つ『価値そのもの』に基づいて決定すべきである。需要と供給の関係に基づいた値段では、売

      • 将棋の形勢評価値についての命題集——価値の根拠について

         このエッセイでわたしが言いたいことは、だいたい以下の4つである。 1. 将棋の形勢評価値は、詰みを根拠・基準にしている。 2. 評価値を根拠にして言えるのは、した方がいいこととしない方がいいこと(勧奨)だけである。してはならないことやしなければならないこと(禁止・当為)は含まれない。 3. ある評価値が通用する範囲は、その対局内だけである。 4. 全体の価値の総量が決まってはじめて一手当たりの価値が決められる。つまり、評価値の数値は割合方式によるのであって、積み上げ方式の

        • カント『実践理性批判』読解1(道徳の原則について)

          以下、『実践理性批判』「実践理性の原則について」の読解(第一部原理論-第一篇分析論以下の)。 定義▼主観的なルールと客観的なルール  道徳を実践するルールは二種類ある。  一つは、主観的なルールで「格律」と呼ばれるもの。もう一つは客観的なルールで「実践的法則(*)」と呼ばれるものだ。  前者は自分だけに通用すればよいものであり、そのまま【各個人のルール】と呼ぶことにする。後者は、すべての理性的存在者(理性さえあれば人間(ホモ・サピエンス)でなくてもよい。文章がわかりにくくな

        西洋哲学史のまとめ——あるいは、伝統的哲学と現代哲学の違いについて

          カント『実践理性批判』「序」解読002

          ▼自由が証明されることの意味 「純粋理性の能動的使用=実践理性=善悪判断」の証明によって、次の3つの存在も証明される。 ・自由 ・神 ・心の不死  この3つは、前著『純粋理性批判』では、可能性までしか証明できなかった。本書では完全に証明される。  この3つのうち、自由の存在が証明されることが、とくに重要である。  なぜか?  自由が確立されれば、純粋理性の理論の基礎となるからである。自由の存在によって、神と心の不死の存在も証明される。  前著『純粋理性批判』において

          カント『実践理性批判』「序」解読002

          カント『実践理性批判』「序」解読001

          ・『実践理性批判』は道徳論である ・カントの前著『純粋理性批判』は認識論である ・『実践理性批判』の目的は、実践理性の存在を論証することである ・実践理性は純粋理性の一形態である(能動的な認識の状態である) ・(「序」ではまだはっきりとは言わないが)実践理性の働きとは善悪判断である  内容を先取りして本文を補うと、序の冒頭は以下のようになる。 序  なぜ、前著は『純粋理性批判』だったのに、本書は『純粋実践理性批判』ではないのか?  それは、【実践理性】とは純粋理性が能動

          カント『実践理性批判』「序」解読001

          無前提での価値づけについて

          仮定 無前提での価値づけは可能である 1が可能なら、世の中のすべてのものに対して、価値づけが可能である それは、ある一つの基準によっての価値づけとなる (疑問)無前提、かつ、それぞれが違う基準での価値づけが可能ではないのか? 考察 1が真なら、2も真といえる。しかし、3は(疑問)のようなことがあるので、1が真でも3は必ずしも真とはいえない。3を真である、というためには、べつの証明が必要になる。 3を根拠にして、1を否定できないかと考えた。しかし、そう簡単で

          無前提での価値づけについて

          将棋の局面評価の根源的な基準は「自玉を詰められるより早く相手玉を詰める」であること

           当たり前のことについて述べます。 「あなた、何言ってるの?」というくらい、当たり前のことについてです。 前提:評価基準の根源 将棋の局面評価ができるのは何故か? 形勢を一元的に数値化できる根源的な理由は?  わたしが言っているのは、駒割と駒の位置関係・手番の数値化のやり方や、手の分岐(ゲーム木)の合理的な除外の仕方(Null move pruning、Futility pruningなど)のことじゃありません。  もっと根源的な。何を根拠に、局面や手のよい・悪いを評価して

          将棋の局面評価の根源的な基準は「自玉を詰められるより早く相手玉を詰める」であること

          『怪談牡丹燈籠』全編語りは、超大作クソゲークリアに挑むがごとし

           この度、『怪談牡丹燈籠』全編を通しで語る配信をやることにしたんですが……この配信、誰も見向きもしないクソゲーをクリアするまで続ける配信と同じだ、って思うんです。自分でやろうと思っておきながら。  しかもただのクソゲーじゃない。超大作でクリアにやたら時間がかかる。そのゲームをやろうって思ったわけが、またくだらない。ただ「やらないと気が済まなくなったから」って、それだけなんですから。 1.気になったのが因果 そもそもこんな手間のかかることやろうと思ったそのきっかけはてと……い

          『怪談牡丹燈籠』全編語りは、超大作クソゲークリアに挑むがごとし