▼自由が証明されることの意味
「純粋理性の能動的使用=実践理性=善悪判断」の証明によって、次の3つの存在も証明される。
・自由
・神
・心の不死
この3つは、前著『純粋理性批判』では、可能性までしか証明できなかった。本書では完全に証明される。
この3つのうち、自由の存在が証明されることが、とくに重要である。
なぜか?
自由が確立されれば、純粋理性の理論の基礎となるからである。自由の存在によって、神と心の不死の存在も証明される。
前著『純粋理性批判』において、思弁理性(純粋理性の一種)にもとづく証明によって、自由が蓋然的に存在することまでは明らかにできた。自由を必要としたのは、思弁理性が無条件的にものを診ようとして陥る「因果関係(原因と結果)による二律背反」から抜け出すためだった。
自由はどうして可能であるかがわからないが、人間が経験によらず元から知っている理念である。
また、自由は道徳法則を存在させるものである。
▼神と不死が必要な理由(参考:プラトン『国家』10巻 9-16章の「正義の報酬」)
神および不死は最高善の条件をなすに過ぎない。そのため、神と不死は認識したり洞察したりはできない。しかしその可能性を想定できる。この両理念がいずれも矛盾を含んでさえいなければ、実践的見地においてはそれで充分である。
神と不死は、物事を認識するだけの場合には、受け取った認識への、個人的な感想を思い描く根拠くらいにしかならない。しかし、善悪判断を行う際には万人に共通の基準の根拠となる。神と不死の想定抜きにしては、人間の幸不幸を超えた普遍的な価値が成立しなくなり、普遍的な価値がないとなれば道徳(善悪の存在)自体が成り立たなくなるからである。
物事を認識する=思弁理性=理性の理論的使用(受動的使用)
善悪判断を行う=実践理性=理性の実践的使用(能動的使用)