(刃の眩み)第六話 そして・・・(最終話)
片山は日野の喉の上にいた。
実習室の開いた窓から、夏の風が静かに入り込んできた。その風が近くの建築現場に出入りするトラックの騒音を運び込む。
実習室を満たす音はもちろん、建築現場からだけのものでなく、学校の前を通りかかっている子供たちからも、他の生徒の鋏の音や咳の音からも成り立っている。
世界は騒々しかった。
しかし、片山の鼓膜にはそのどの音も入ってはこなかった。
片山の体も、そして彼の触れる物の全ての時はまるで独自の時間を漂い始めていた。
片山の体はもうしばらく前からうっすらと電気の靄に包まれているように暖かで、そして静かであった。
日野の動脈が彼の指先で脈打っている。彼は、手中の剃刀を横に滑らせた。
血が、滑稽なほど勢いよく日野の喉から飛び散った。片山は全身でその血を受けた。
他の生徒、そして教師達が駆けつけるまでの数秒、片山はその中に浸ることを許されていた。そして、彼らの駆けつけてきた時、片山は気を失い、床に倒れこんだ。
それが不可避の、どうしようもなかった事故であったこと、また、片山の将来を危惧した日野の両親が提訴を取りやめたために、片山は社会へと無傷で復帰することが出来た。
卒業までの一年半はあっという間に過ぎ去っていった。
片山は「最」がつくほどの優秀な成績を従え、学舎を後にした。井上理髪店という地方の床屋に来週から勤めることになっていた。
※
(井上の従業員勤務手記より)
2月9日。今朝は身が切れるほど寒かったが、相変わらず空には雲ひとつ浮かんでない。
片山が復帰。風邪を引く前よりもむしろ明るくなった感じがする。
今日は片山の復帰待ちだった香さんが来店する予定だ。
<その日、朝から冬一番の寒さが続いていた。
しかしその寒さにもかかわらず、雲ひとつない冬晴れの空に人々の表情は明るかった。
午後一時、香が予約確認の連絡後来店。井上が応対に出た。片山は他の客の整髪を行っていた。
黒に統一された服に香の肌の白さが際立っていた。>
これを記しているいま、片山は平塚さんを終わらせ香さんに取り掛かっているはずだ。
帳簿の記載にミスがあった。そろそろ山本さんに税務処理の依頼が必要だ。
<片山の前に今、香がいた。よく研いだ剃刀が彼の手にあった。
陽光を香の絹のような肌が瑞々しく反射していた。>
そういえば先日、店の改装の見積もりが出た。長松さん、山口さん達と店をやるにはやはりもう少し見積もりよりも大きくした方がよさそうだ。
<片山は香の首筋にゆっくりと、クリームを塗っていった。
小さな無数の泡がはじけ、混ざり合い、広がっている。
興奮が静かにやってきた。
片山は手先が震えないように渾身の集中力をもって香の首筋をなでていった。
落ち着け、落ち着け
そうだ。そう、ゆっくりと。
傷なんてつけたら台無しだ。
そうだ、そうだ。
ゆっくりと。
ゆっくりと・・・
香は柔らかい台に頭を乗せ、まるで寝ているように規則正しく呼吸していた。
刃を持っていない手で片山は香の首をそっとなでた。
香の神聖なその皮膚の下にある鼓動まで、愛しく、そして神々しかった。
香の神秘は姉の神秘であった。
そして神秘の下には真実が隠されていた。
自分の呼吸が微かに高まるのがわかった。
片山はゆっくりと刃を握りなおし、香の頚動脈をやさしく、そして愛情と敬意をもって、斯き切った。>
何であろうか?
店が静かだ。
今日は病み上がりの片山のために店を早く閉めるとしよう。
彼が良くなったら飲みに連れて行ってやろう・・・
「刃の眩み」 了
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