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日プ女子とバチェラーの"不可能性定理"

皆さんは「日プ女子」と「バチェラー」をご存じだろうか?

日プ女子とは「PRODUCE 101 JAPAN THE GIRLS」の通称である。韓国で大ヒットしたPRODUCE 101という公開サバイバルオーディション番組の日本版・女性版であり、ガールズグループを目指す101人の練習生から、日本国民(国民プロデューサー;通称『国プ』)の投票によってデビューできる11人を選抜する、という番組だ。2023年10月5日に動画配信サービス「Lemino」にて第1回配信を開始、12月16日に最終回を配信予定となっている。

バチェラーとはAmazonプライム・ビデオにて配信されている恋愛リアリティ番組で、イケメンかつ社会的地位もある魅力的な独身男性(バチェラー)の元に集まった女性達が、バチェラーの心を射止めるためにデートを重ね、サバイバルを繰り広げていく。バチェラーが運命の相手となる最後の1名を決めるまで、他の女性たち振るい落としていく。2017年のシーズン1配信スタート以来、2023年12月現在でシーズン5を数える他、男女が逆転した「バチェロレッテ」もシーズン2まで配信されている。

2つの番組の共通点は「ガールズグループとしてデビュー」や「バチェラーとの恋愛成就」というゴールを目指す過程で巻き起こる人間ドラマを楽しむコンテンツである点、さらにその過程で自身の「推し」を見つけ、その当落を固唾を呑んで見守る、というスリリングなサバイバル要素を楽しめる点である。一方、参加者の選抜は「日プ女子」では「国プ(日本国民)の投票」により行われるが、「バチェラー」ではバチェラーという「一個人の独断と偏見」によって決まる点は非常に対照的である。

「一人で決める」ことと「みんなで決める」ことには違った難しさがあるし、なぜ難しいか・どのくらい難しいか、ということは実は理論的に結構分かっている。私はこういった番組を見聞きし図らずも、理論が示唆する難しさを楽しんでいるんだなあとしみじみ感じたので、記事にしてみた。

私の結論は、サバイバル形式という一見似たコンセプトの両番組だが、その背後に潜む面白さの構造は全く対照的で異なるということだ。


「自分の推しを決める」とはどういうことか

日プ女子であれバチェラーであれ、番組を楽しむ第一歩は、自分の好みに合う「推し」を決めることだろう。推しを決めることを経済学では「選好」というが、経済学的に「推しを決める(選好する)」とはこういうことである。

  1. 参加メンバー全員について、どの2人を比べた時にも「どちらかが好き」もしくは「同じくらい好き」と答えられる(完備性

  2. 「AさんよりもBさんが好き」で「BさんよりもCさんが好き」ならば「AさんよりもCさんが好き」ということに納得できる(推移性

もしあなたが日プ女子の101人やバチェラーの女性20人でこれらができるなら、一番好みのメンバーから最下位まで同率を許してズラッと並べることができる、ということである。推し活は一人かせいぜい数人をpickするくらいのことだろうから、全員順位付けできる方はかなり筋金入りのファンと言えそうだ。ともかく自分の好みの選び方がこの完備性と推移性を満たし、全員を好みの順に並べられることを「推しを決める」ということにしよう。

「みんなで推しを決める」とはどういうことか

上の話は要は全員を好きな順に並べてくれ、と言われているだけなので、それが「自分の推しを決めることだ」と言われても、そんなに違和感はない。それでは次に、国プの方3人に集まってもらって3人で推しを決める時、3人とも納得する形で決められるだろうか?言い換えれば、3人の好みをまとめた「集団の選好」は、完備性と推移性を満たすだろうか

3人の多数決で推しを決める

「日プ女子」は基本的には国プの多数決で決まるので、ここでは多数決を考えたい。たった3人の多数決の場合でも、集団の選好は必ずしも完備性と推移性を満たさず、従ってみんなが納得する投票結果を出すことがいかに難しいかを見ていこう。例えば国プの3人(太郎P、次郎P、三郎P)が、メンバーの3人(Aさん、Bさん、Cさん)について以下の選好を持っているとする。

太郎P:Aさん>Bさん>Cさん
次郎P:Bさん>Cさん>Aさん
三郎P:Cさん>Aさん>Bさん

この状況で「AさんとBさんのどちらが好きか」で多数決を取るとA>Bである太郎Pと三郎PがAさんに票を入れるので集団の選好はA>B。「BさんとCさんのどちらが好きか」では同様に太郎Pと次郎PがBさんに入れるので集団の選好はB>C。「CさんとAさんのどちらが好きか」では、次郎Pと三郎PがCさんに入れるのでC>Aとなる。するとどうだろう、集団の選好はA>B>C>A>B>...という三つ巴のじゃんけん状態になり「3人の推し」が決まらなくなる。このように個人の選好が推移性を満たしても、集団の選好が推移性を満たすとは限らない。

次に、まだ番組開始序盤で、3人の国プは2票入れられるとする。またA~Cさんの3人への投票を考えており、各自は自分の選好順に従って上位2名に投票することにした。この時点の各自の選好は以下の通りであった。

太郎P:Aさん>Bさん>Cさん
次郎P:Aさん>Bさん>Cさん
三郎P:Cさん>Bさん>Aさん

結果、得票数は、Bさん3票>Aさん2票>Cさん1票。確かに推移率は満たしているが…あれ?誰も1位に推していないBさんが1位になった。この結果が3人の意見を反映したものかと言われると、微妙だろう。おそらくこのメカニズムは実際の「日プ女子」でも不確定要素としてスリルをもたらす。もしあるメンバーが、(国プが複数票入れられる)序盤は難なく得票数で勝ち抜けていたが、実は満遍なくみんなから応援されるが熱狂的なファンが意外に少ない「みんなのNo.2」タイプだったとすれば、終盤に各自1票しか入れられない局面で、どのくらい得票できるだろうか…?

逆に国プ側も複数票入れる場合、1票を推しに入れ、他の票を当選確実のメンバーに入れて死票化させることで当落線上にいるライバルへ投票してしまうリスクを防ぐ、という戦略もとられよう。

つまり、多数決で順位を付けようとすると、集団の選好が推移率を満たさず循環を起こしてしまったり、順位がついても「中庸の選択肢」が選ばれ、必ずしもみんなが推すメンバーが選ばれなかったりする可能性もある訳だ。だからこそスリリングな要素として番組が成立しているのかもしれないが、こうして選ばれた結果には何が反映されているのだろうか?願わくは、集団の選好としてもきちんと納得できる形で選ぶことはできないのだろうか

みんなで推しの順位をちゃんとつける選び方は、実はある

実はここまで見てきた2つの問題は、このようなルールに変えれば解決することができる。各自の1位に3点、2位に2点、3位に1点を入れ、合計得点で順位付けすればよいのだ。すると上の2つの例ではどうなるだろうか。

太郎P:Aさん(3点)>Bさん(2点)>Cさん(1点)
次郎P:Bさん(3点)>Cさん(2点)>Aさん(1点)
三郎P:Cさん(3点)>Aさん(2点)>Bさん(1点)
⇒Aさん(6点)=Bさん(6点)=Cさん(6点)で同点となるが、同率という推移性を満たすため循環は起こらなくなる

太郎P:Aさん(3点)>Bさん(2点)>Cさん(1点)
次郎P:Aさん(3点)>Bさん(2点)>Cさん(1点)
三郎P:Cさん(3点)>Bさん(2点)>Aさん(1点)
⇒Aさん(7点)>Bさん(6点)>C(5点)で、1番に推すファンが最も多いAさんが集団の選好としても1位になり、全体でも推移性を満たす

このように推し順に点数を付ける方式はボルダルールと呼ばれ、これを採用すれば個人の選好が満たす性質である完備性と推移性を集団の選好としても満たすことが知られている。つまりこの方式を「日プ女子」で採用すれば、集団の選好を反映した投票順位で1位から最下位まで同率を許しズラッと並べられることになる。一方、多数決では理屈上は循環が起こるリスクがある。中庸の選択肢が選ばれる可能性はボルダルールでもゼロではないが、重みづけして集計している分、そのような状況も起こりづらそうな気もする。

ここまで読んで頂いた読者の方は、おそらくこう思うのではないか。

だったらボルダルールを採用すればいいじゃないか!

…と。しかしこの方式は実は別の重大な欠陥を抱えていることが知られている。それは例えばこんなケースである。

先ほどまではA~Cさんの3人について考えてきたが、ここで新たにDさんとEさんの良さにも気づいてきたので、ランキングに加えよう。但し3人とも初回からA~Cさんを推してきているので、すぐにDさんやEさんに大きく推し変することもなさそうだ。この時、3人の選好は以下のようになった。

太郎P:Aさん>Bさん>Cさん>DさんEさん
次郎P:Aさん>Bさん>Cさん>DさんEさん
三郎P:Cさん>Bさん>DさんEさん>Aさん

ここで、先ほどと同じくボルダルールに基づき投票してみる。但し今回は候補が5人になったため、1番に5点、2番に4点、…と割り振っていく。

太郎P:Aさん(5点)>Bさん(4点)>Cさん(3点)>Dさん(2点)>Eさん(1点)
次郎P:Aさん(5点)>Bさん(4点)>Cさん(3点)>Dさん(2点)>Eさん(1点)
三郎P:Cさん(5点)>Bさん(4点)>Dさん(3点)>Eさん(2点)>Aさん(1点)
⇒Bさん(12点)>Aさん(11点)=Cさん(11点)>Dさん(7点)>Eさん(4点)

…あれ?今度はBさんが1位になってしまった。A~Cさんの選好順位は、DさんとEさんを加える前後で一切変えていない。にもかかわらず、DさんとEさんを加えたとたんに集団の選好順位が変わるのは何故だろうか?

それは、三郎PがDさんとEさんをAさんよりも上の順位に入れた結果、Aさんは変わらず三郎Pの中で最下位だが、CさんやBさんと順位が離れてしまったために得点が相対的に落ち、Aさんの合計点が伸びなくなったためである。

このように、ボルダルールを採用するとこれまで検討していたA~Cさんとは「無関係な選択肢である」DさんとEさんの存在によって、A~Cさんの順位が変動してしまうということが起こる。これがボルダルールの弱点である。

これがいかにまずい状況か、直感的に分かるだろうか。何となくだがこれまでのランキング争いに他のメンバーが加わることで、元のメンバーの順位が変動することがあってもおかしくなさそうである。しかしこれを次のように個人の好みに置き換えて考えると、違和感があることが分かるだろう。

太郎P「ねえ次郎P、君はAさんとBさんのどっちに投票する?」
次郎P「僕はAさん推しだからもちろんAさんに投票するよ!」
太郎P「なるほどね。ところで昨日、初めてCさんのことを知ったんだ、次郎Pは知ってた?」
次郎P「いや、初めて知った、こんな人がいるんだね。よし、Bさんに投票することにしたよ!」
太郎P「!?」

上の会話で次郎PはBさんよりもAさん推しだったのに、Cさんという全く独立の選択肢が提示されたことが理由でBさんに推し変する、この因果関係の違和感にお気づきだろうか。このような選好の不自然さが、ボルダルールによって引き起こされてしまうのである。

もっとも、このような場合もある。Cさんを知った時、同時に見たCさんとBさんのグループパフォーマンスがキレキレで改めてBさんの魅力に気付きBさんに推し変した、と。ただしこの場合はもはやCさんはBさんにとって「全く独立した」選択肢とは言えないため、ボルダルールの欠陥とは異なる状況である。つまりボルダルールは完備性と推移性は満たすが、無関係な選択肢からの独立性は満たさない

「みんなで推しを決める」研究でノーベル賞

実はこのような、3人以上の練習生がいる時にみんなで推しを決めるプロセスにおいて、完備性・推移性・無関係な選択肢からの独立性の全てを満たす集団の投票ルールは存在しない、ということが数学的に証明されている。これを「Arrowの不可能性定理」と言い、1972年に当時史上最年少の51歳でノーベル経済学賞を受賞した大経済学者Kenneth Arrowの偉大な業績である。いわば「みんなが納得する投票方法」という予定調和がそもそも存在しないという事実が、サバイバルオーディションというエンタメが持つ魅力の真髄なのかもしれない

Kenneth Arrow (1921-2017)

日プ女子の熾烈なランキング戦や自分の推しをなんとか勝たせるべく様々な投票戦略に施策を巡らせる国プを目の当たりにし、このArrowが公理論的アプローチによって導いた美しい定理に思いを馳せたのであった。

ちなみに、まだ話は続く。実はこの定理、完備性・推移性・無関係な選択肢からの独立性を全て満たす集団の投票ルールが存在しないことを示す定理であるが、実は1つだけ重要な例外が存在する

それは、独裁者が集団の意志を一人で決定してしまう状況である。確かにこの場合は、集団の選好が独裁者個人の選好とイコールになるため、その人が好みの順に並べてしまえばそれでお終いである。ただ、日プ女子のデビューメンバー11人を特定の誰かが勝手に決めてしまっては、さぞ興ざめだろう

日プ女子という企画において、練習生101人からデビューメンバー11人を特定の一個人が独断と偏見で決めてしまうことほどつまらないことはなく、それでは全くコンテンツとして成立していない。しかしまてよ、同じくひとところに集められた女性数十名を「一個人の独断と偏見」で選ぶことがエンタメとして成立している、そんな番組をどこかで聞いたことがあるような…

…それってバチェラーじゃね?

そうである。日プ女子においては言語道断な禁じ手である「個人が勝手にメンバーを選抜すること」が、バチェラーではむしろエンタメの根幹になっているのである。これはなかなか興味深くないだろうか。

番組に複数の魅力的な女性が登場する点、彼女らが毎回振るい落とされる点は両者の共通項である。では両者の違いは何か。それは、選ぶ側の人間を描くかどうかの違いである。日プ女子の主役は当然ステージを目指して「選ばれる」101人の練習生だが、バチェラーの主役は誰かと聞かれたら、それは運命の女性を「選ぶ」バチェラーであろう。

Kenneth Arrowが想定する合理的個人は速やかに女性に順位を付けて終わりであり、バチェラーのあの葛藤を描くことは到底できない。バチェラーが何故面白いのかと言えば、それは旅を共にする女性とどのような時間を過ごし、どのような魅力に惹かれ、それに伴いどのように気持ちが動くのか、それが事前に・完全に分かっていないから、つまり人は完全に合理的足りえないという事実に立脚しているから、と言えよう。

日プ女子とバチェラーの"不可能性定理"

以上の論旨をまとめると、次の通りである。

「日プ女子」的エンタメの真髄は「『合理的な個人の集団』がなす非合理性」である。「日プ女子」では「選ばれる側」の練習生に焦点を当てている。彼女らの当落は、選ぶ側の国プの個々人がいかに合理的だとしてもその集団としての選好は原理的に合理的足り得ないという「不可能性」に左右され、それによる予定調和の否定が臨場感を生み出している。

「バチェラー」的エンタメの真髄は「個人の限定合理性・非合理性」である。「バチェラー」では「選ぶ側」のバチェラーに焦点を当てている。限られた時間で「愛」という本源的な選好を見出さねばならないが、ものごとを完全に合理的には判断できないという「不可能性」に直面した個人の限定合理性(非合理性)とそれによる予定調和の否定が臨場感を生み出している。

以上が「日プ女子」と「バチェラー」に見るエンタメの真髄の構造的差異に関する一考察である。エンタメを生み出す「不可能性」の質が違うことは大変興味深く、次々と疑問が湧いてくる。例えば、あなたは両番組のどちらが好きだろうか。そしてその選好は、ここで考察した「不可能性の質的差異」と何らか関連するだろうか。

経済学的な枠組みを用いたエンタメの考察は個人的に存外面白かったため、流行り物を見つけてはまたこうしてとりとめもなく考察してみようと思う。

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