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気持ちが伝わる、ということ【文フリ参加に向けて】

さぁ、どうしようかなぁ、と私は思った。自分で表紙を作るなんて、無理だ。

文章・創作サークル主催者さんから「文学フリマ」で本をつくってみませんか、と打診を頂いた。noteの記事のを使用していいのであれば、なんとかなるだろう、そんな気持ちで引き受けた。それに、少なからず、noteに投稿した記事を気に入っていただけた、ということだ。光栄なことだと思う。私は自分のエッセイを主催者さんにお渡しすれば、あとは当日会場へ向かうだけでいいのだ。私にとっては、最小限の力で素晴らしい機会をいただけた、ということで、偶然手繰り寄せたものに満足していた、のだが。

「表紙は自分で作ってみてくださいね。お友達に頼んでも構いません。」

ひょ、表紙?はい、わかりました、となんでもないように送る。そりゃ、そうだよな、と思う。表紙は本の「顔」だ。それはなければならない。しかしどうしようか?
おっしゃっていただいているとおり、選択肢は二つだろう。

① 自分で作る。
② 友人に頼む。

①ができればいいな、と思った。それは「私がnoteを書いていることを知っている現実の友人はあまりいないから」である。絵をかいてもらう、ということは、すなわち文を読んでもらう、ということではないだろうか?それも丹念に。丁寧に。表紙と文章合わせて、一つの作品と考えるのであれば。

書いているエッセイは、実のところ、身バレ防止にフェイクは入っているが、伝えたいことや思っていることが捻じ曲がるようなフェイクは入れていないつもりだ。実際ここに書いてあることは、現実で話す必要がないから、話していないのだ。そんな言葉を現実の誰が受け止めてくれるだろう?

しかし、表紙を作る、デザインする、そんなことができる力量が私にあるのだろうか。たまに「文章が上手で絵もうまい」「文章が上手で歌もうまい」という表現力に愛された神に出会うが、私は表現力の中でも、文章を書くのが好き、という気持ちだけ神様からお恵みを頂いた感じなので、絵心は本当に皆無だ。「写真が取れれば、写真を表紙にしてもいいのでは?」いや、実は写真も撮れない。「携帯の自撮り」は高校生の頃からお相手に託していたし、旅行先で会心の風景写真を撮って帰ったつもりでも、帰ってから見ると指は入るわ、なんか傾いているわ、でまともな写真を撮った記憶がない。

しかも、ほかの作家さんの作品をみると、生半可な感じの表紙ではない。実際に聞いてみてはないが、みなさん自分で作っているのだろうか?だとしたらすごい。それこそ表現力に愛された神様かしら。日常に隠された風景の一瞬を切り取っている、非日常感あふれる表紙、モデルさんを使っている表紙、イラストレーターさんに頼んで書かれた表紙・・。この中に紛れこむのであれば私とてきちんとしたものを作りたい。

いや、これまじで私の羞恥心なんてどうでもよろしいわ。おとなしく頼もう。

そんなことで②友人に頼む、と決めた。そうと決まれば話が早くて、私が心に浮かんでいたのはたった一人である。絶対に半端なことはしない人だ。だからちゃんと読んでくれるだろうし、ちゃんと作ってくれるだろう。何しろ、友人として信頼している。

しかし、決意を固めるだけ固めて、私は一か月ほど決意を寝かせた。
ちゃんと読んでくれる、ちゃんと作ってくれると思っていたからこそ、頼むことに勇気が必要で、さらに遠慮があったのも事実である。忙しいだろうしね。

*
さぁ、締め切り1か月前を迎えた。頼むのなら、もうそろそろ頼まなければ、相手の都合というものがあるだろう。
しかし、本当に頼んでもいいのだろうか?相手はデザインをしっかり勉強してきた人だし、それに記憶がおぼろげだが、何かのデザインが公募で選ばれた、と言っていた気がする。しかしもうこれ以上先延ばしにはできない。私はもう一度、自分の絵心のなさと、ほかの作家さんの作品の表紙のすばらしさを思い返し、ラインをした。

「本の表紙のデザインしたことある?」
「あるけど、なした?」
「10月の文学フリマに作品を出す予定で・・・もし、もし、もし良ければ表紙を作って頂きたいのです・・!!」
心の中でひたすら祈る。

「文フリいいね!これ今まで作ったやつ!」
友人はポートフォリオを送ってくれた。
あ、よかった。引き受けてくれそうだ。「頼む」という行為に必死になりすぎ、エッセイ集のタイトルすら決めていなかったのと、ざっくりとした案すら頭の中になかったので、翌日に要望や構想を送った。

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(ほら・・絵心ないでしょ・・)
いや、ほら、素人が変に考えるのもあれだし、考える余白を残した方がいいかな、と思ってさぁ・・(ごにょごにょ)
しかし、こんな棒人間が道端にいるような極めて簡素な構想にも拘らず、翌日には素晴らしい表紙案を提案してくれた。


「(翌日)さっそく2パターン、ちょっとつくってみた。」
「服装、これ大学の話だったら私服の方がいいよね?」
「noteのサムネイルの明朝体って何使ってる?それと合わせてみるわ!」
「そういえば、あの記事も読んで、こんな感じにもしてみた。」
「こっちの方がノスタルジックな感じ出ると思う。」(どれも良すぎて選べない私に)


あのふんわりとなげた要望や構想が、こんなに素敵なものになるとは・・。正直どれもこれも良すぎて、全部表紙にしたいくらいだった。し、こんなに尽力してくれて本当に頭が下がった。だって例えば、私には前半を書きすぎる、という癖があって、よく前半1000字を削るのだが、それすら書いた労力を惜しんで「それ、なんとかして残しておけないのか」と心の中の自分がぐずることがある。しかし、彼女は「使われない可能性」がある表紙デザインを「楽しいから」と言って、労力を惜しまず、たくさん作ってくれた。私はあの絵に「女の子の後ろ姿」「夜」「月」という三つの条件しか提示しなかったのだが、彼女は私のnoteを読み込んでくれていて、私が言わなかった要素まで、表紙デザインに組み込んでくれた。「デザイン案を考える」だけでなく「読む」という労力もあったわけだ。

しかもデザインだけでなく私のnoteも楽しんで読んでくれたというのだから、本望である。さらに、インターネットで文章を投稿する様になって思うのだが、信頼できる言葉の受け手の存在というのはありがたい。「多分そうだろうな」と思っていた現実の友人も「信頼できる言葉の受け手」であってたことがわかって、本当に勇気を出して頼んでよかった、と思う。


もちろん全力で期待をしていたのだが、その全力の期待を超える表紙が出来上がった。私は満を持して、表紙のデータをおくった。
*
タイトルなし


「お友達の気持ちが伝わってきました。いい表紙ですね。愛が伝わってきます。」
私が表紙について何か言う前に、そう返事が返ってきた。私は少しだけ驚いた。だって彼女が何パターン案を作ったか、またどれくらい私のnoteを読み込んでくれたか、どれくらいの労力をもって彼女が表紙を作ったか、なんてまだ知らないはずなのに。創作物は主観で観れば、正直どうとでも取れる。それでも、私がこの表紙を通して、同じ気持ちが伝播したような気がしたのは正直驚いた。私が「きちんと文章を読んでもらっている、真剣に考えてもらえた」と思った感情が風のように伝わったのだろうか。

いや、感情が伝わったのは、間違いないと思うが、少しだけ補足が必要だと思う。それは、主催者さんもわたしの文章をちゃんと読んでくれているから、私の友人がデザインに散らした「私の文章」がきちんと見える、という前提が成り立っていないと、おそらくその表紙に込められた意図は伝わらない。

どんなに大きな声を出しても、伝わらない、わかりあえないような気がしていたのは、もう遠い昔のことだけれども、わかりあえた、を渇望し、ひたすら糧にしているところはあるのかもしれない。ものづくりは素晴らしい、というが、思わぬところでその良さを享受できた。



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