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仮面ライダークウガ考 【1】五代雄介について

 まずは、主人公・五代雄介について書いてみたいと思う。
 自称冒険家で、どんな事にもへこたれず、いつでも前向き。2000の技を持ち、究極の武器は、あの極上の笑顔。 妹のみのりによれば、「お兄ちゃんを信じて裏切られたことがない」と言う。
 両親は、幼い頃に死亡。他に親類縁者もなかったのか、父親の友人であった、喫茶店「ポレポレ」のマスターに育てられ、 唯一の係累は妹のみのりだけ、と言う境遇である。
 この境遇の面だけ見れば、たしかに彼は、歴代のライダーたちとあまり変わらない。
 日本のヒーローたちの多くは、係累が少ない者が多く、ライダーたちもむろん例外ではない。
 おそらくそれは、日本では「孤独なヒーロー」が好まれたためと、ヒーローたちの誕生したのが、ようやく生活が豊かに なり始めた、だが、「戦後」の色もまだ残っている、そんな頃合だったからだと思う。
 たとえば、「タイガーマスク」や「あしたのジョー」に登場するような孤児たちや、あるいは孤児院と言ったものが、 あの頃の都市部ではごく普通だった時代の産物なのだ。もちろん、今の時代にも孤児院もあれば、孤児たちも存在してはいる だろう。けれども、たいていの人は、それが存在する事すら考えたことがないのが今の時代であり、だが、ヒーローたちが 生まれた時代には、「親のない子供」の存在はごく普通だったのだと思う。
 また、今までのライダーたちは悪の組織によって捕らわれ、改造されると言う悲運に見舞われる存在でもあった。
 改造する悪の組織側としては、なるべく行方不明になっても騒がれる事の少ない、係累の少ない人間を選んだと 考えてもおかしくはない。
 ともあれ、日本では、ヒーローたちはいつも孤独で、家族もおらず、友も少なく、天涯孤独の身である事が多かった。
 五代もまた、その境遇の点はしっかりと踏襲しているのだ。
 だが、性格の面では、五代は他のライダーたちとはまったく違う。
 そもそも、あんな風に満面の笑顔を浮かべるキャラクターが、 ライダーと言わず、日本の特撮ヒーローたちの中に いただろうか。
 日本のヒーローたちの多くは、あんな風に、花が咲いたような笑顔を浮かべたりすることはない。 殊に、古い作品になればなるほどそうだ。
 それは、言ってみれば、日本人の「男性はこうあるべき」と言った決め付けから来ているものでもあると思う。
 つまり、日本男児はへらへらと笑ったりしてはいけないし、ましてや孤独のヒーローなんだから、眉間にしわの 一つでも寄せて、苦味走ったいい男でなくてはいけない、と言う、社会全体としての決め付け、枠によるキャラクター 造形がなされていたわけである。
 女性である私から言えば、本当の強さはイコール暴力ではないし、笑ったり歌ったりと言うようなことは、 けして軟弱なことではないと思うのだが。
 けれども、そう言う考え方が認められ、男だとか女だとか関係なく、人は人間として自分の生き方を選べばいいのだ、 と言う考え方が広がり始めたのは、本当に最近のことだ。
 そう言う意味では、五代雄介は、他のライダーたちと同じく、「時代の子」なのだろうとも思う。 時代が、視聴者たちが求めたからこそ、かつては軟弱だと思われた部分を性格の上に持つ、「五代雄介」と言う キャラクターが誕生したのだ。
 ただ、ここで誤解してはいけないのは、 五代がけして、本当は軟弱なわけではないのだと言うことである。
 むしろ、もしかしたら他のライダーたちの誰よりも勇敢だったのかもしれないと私は思う。
 なぜなら、他のライダーたちは、悪の組織による被害者の一人であり、ただがむしゃらに自らの運命と戦っているに すぎなかった。
 望んでもいないのに、体を改造され、ライダーにされてしまった彼らは、悪の組織から逃亡し、彼らの追跡から 逃れるために、戦う事を余儀なくされた。
 彼らの戦いの原動力は「怒り」であり、本来の穏やかな生活を取り戻したいと言う事への「渇望」だったろうと 思う。
 だが、五代は自ら望んで、ライダーとなったのだ。
 望んで、と言い切ってしまうと、いささか語弊があるかもしれない。
 だが、第1話を見ればわかる通り、彼は、超古代の戦士クウガの呼びかけに応え、自らベルトを身に着けている。 そして、未知の存在である敵と戦う力がほしいと望んでいるのだ。
 その後も彼は、そんな力を手に入れてしまった自分の運命を呪いもせず、あの時、ベルトを身に着けた事を後悔する こともなく、ただ飄々と自らの運命を受け入れ、ベルトから得られる力について知り、それを有効に使う事を考えている。
 しかも、その過程で、かつてはライダーたちの戦いの原動力だったはずの「怒り」を、原動力として使ってはならない 事が判明する。
 「怒り」に心を支配された時、彼は、「究極の闇をもたらすもの」へと変化してしまうと言うのだ。 すなわち、「五代雄介」と言う一個の人間ではなくなり、敵であるグロンギと同じ、いや、それ以上の戦闘兵器になって しまうと言うのである。
 つまり、戦う事の原動力に「怒り」を利用してはならないと言うことだ。
 それは実は、「暴力」の行動原理を否定するものでもある。
 たいてい、人間が他者に対して暴力をふるう時、その原動力となるのは「怒り」である。 最近の事件でも、最も多い理由は「むしゃくしゃしたから」と言うようなものだ。戦争にしろ、その根底にあるのは、 苛立ちを含む「怒り」だろう。
 だのに、その「怒り」を持ってはならないと言うのである。
 自分や、自分の大事な人間たちに害をなす存在に対して、怒りを覚えるなと言うのは、かなり無理な相談である。 そもそも、人間は痛みに対して怒りを覚える存在だ。
 誰でも経験があると思うが、自分の不注意で、どこかに頭や足をぶつけたり、あるいは、急に腹痛が襲って来た、 と言う場合であっても、怒りを覚え、腹を立てるものだ。
 だから、まったく怒りを感じないでいる、と言うことは無理だろう。が、できる限り感情を抑え、 「怒り」を抑えて戦わなければならない、と言うことだ。
 それは、今までのライダーに要求されたのとは、まったく逆のことだ。
 ところで、「怒り」の逆の感情はなんだろうか。
 喜怒哀楽と言う文字を見ればわかる通り、それは「喜び」と言うことになろう。
 つまり、五代は「怒り」ではなく「喜び」を戦いの原動力にしなければならないわけだ。
 そして、それを表すかのように、彼は言う。 「みんなが笑顔でいられるように」 自分は戦うのだと。

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