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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/(34)「32」主力選手から職人野手の背番号、そして捕手の新しい歴史へ】

割引あり

(写真 左から、19代・捕手として歴史を刻む佐藤都志也、初代・代打として活躍大館勲夫、3代・大毎投手陣の主力若生智男、8代・新ミサイル打線裏から支えた新井昌則、9代・32番唯一タイトルホルダー西村徳文、16代・俊足巧打の根元俊一)


(34)「32」主力選手から職人野手の背番号、そして捕手の新しい歴史へ

 背番号32の系譜は職人的野手が連なる系譜だ。初代は代打としてチームを支えた大館勲夫から始まる。その後、投手陣を支える存在となる若生智男が背負うが、以降は岩崎忠義、新井昌則といぶし銀の職人選手が背負う。背番号32を出世番号にしたのが西村徳文だった。首位打者、4年連続盗塁王と32として初めてタイトルを獲得し背番号3へと成長した。マリーンズとなってからもこの系譜は継がれ、根本俊一へと吹き継がれていた。そして2020年に捕手として初めて32を背負ったのが佐藤都志也だ。着実に新しい32の系譜を作っている。

----- 現在の背番号「32」 -----

 ★《19代》2020(R2)年~2024(R6)年・5年目 佐藤 都志也(さとう としや) 捕手(在籍5年目)

 【佐藤 都志也 背番号変遷】32(5)
 2019(R1)年のドラフト2位で東洋大学から入団した佐藤都志也が、背番号32を引き継いだ。
 1年目の20(R2)年は新型コロナウイルスの影響で開幕が6月に延期されたが、開幕一軍入りを果たす。開幕6戦目・25日のオリックス3回戦(ZOZOマリン)に代打で初出場。27日の5回戦では延長10回裏、代打で登場するとプロ初安打、初打点となるサヨナラタイムリーを放つ。以降、代打と第3捕手として一軍に帯同、指名打者としてもスタメン出場も果たし、9月3日の西武14回戦(ZOZOマリン)では捕手としてスタメン出場し、プロ初本塁打も記録した。ルーキーイヤーはシーズン通して一軍に帯同し、60試合に出場(捕手28試合)し、打率.228、2本塁打12打点を記録した。
 21(R3)年は開幕一軍入りを逃す。しかし一軍登録された捕手が相次いで離脱し、4月下旬に一軍合流しマスクを被る。しかし、離脱者が復帰すると抹消される。その後は一軍と二軍を往復するシーズンとなり、最終的に62試合に出場(捕手40試合)し、打率205、6本塁打18打点に終わる。
 22(R3)年は、開幕戦・3月25日の楽天戦(楽天生命)に5番・一塁でプロ初の開幕スタメンを果たす。以降、田村龍弘がケガ、加藤匠馬の不調で高卒ルーキーの松川虎生と併用起用される。マスクを被らない試合では一塁に入る。打撃も好調で4番にも座り勝負強さも発揮していたが、夏場以降は調子を落とし、最終的に自身最多の118試合(捕手84試合)に出場し、打率.214、8本塁打、31打点で終えた。しかし、盗塁阻止率はリーグトップの.361を記録し成長の跡を見せたシーズンとなった。
 23(R5)年は開幕一軍入りし、開幕戦では代打で登場してヒットを放つスタートを切る。以降、好調な打撃でマスクも被り、4月は2割台後半を維持する。しかし、盗塁阻止率が8割5分に上昇すると、バットは湿りがちとなり、前半は打率.192と低迷する。後半に入ると徐々に本来の打撃を取り戻す。2位がかかった最終戦では8番捕手でスタメン出場し、先発・小島和哉を好リードで支え、バットでは2点タイムリー二塁打を放ち、CS本拠地開催を手繰り寄せる活躍を見せた。4年目は最終的に103試合に出場し、打率.218、4本塁打22打点と前年よりも数字を落として終えた。リーグトップを走っていた盗塁阻止率も夏場以降は数字を落とし.319に終わった。目標の「打てる捕手」を目指し、5年目のシーズンを迎える。
 (23年シーズン終了時)
 <343試合、打率.216、844打数182安打、20本塁打、83打点、8盗塁>

----- オリオンズ&マリーンズ「32」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年~1954(S29)年・年 大館 勲夫(勲)(おおだて いさお) 内野手(在籍6年)

   ※1954(S29)年まで勲、55年は勲夫

 【大館 勲夫 背番号変遷】32(5) ⇒ 30(1)
 ハワイ出身で前年阪神に在籍していた大館勲夫が、開幕直前に徳網茂とのトレードで移籍し、初代背番号32を背負った。
 50(S25)年は開幕2戦目・近鉄1回戦(藤井寺)に7番一塁でスタメン出場して移籍後初出場。その後しばらくは出番なく30日の東急2回戦(後楽園)にスタメン出場して初安打を記録。その後は出番は少ないものの代打として登場し、8月13日の阪急13回戦(秋田・手形)では途中から守備に入り、回った打席で移籍1号を放つ。最終的に31試合に出場し62打席で打率.232、2本塁打8打点を記録し初代リーグ制覇に貢献したが、日本シリーズでは出番がなかった。翌51(S26)年は出番が減り、24試合に出場ながら打率.261、2本塁打8打点だった。
 52(S27)年は開幕から一軍ベンチ入り。前年同様に代打として起用されるが、開幕から好調な打撃を見せる。打席は少なかったものの、4月末時点で打率.545、2本塁打と代打として勝負強さを発揮する。その後は数字を落とすものの前半は打率.362、4本塁打を記録する。後半は調子を落としたものの、このシーズンは61試合に出場し打率.319と自身初の3割超え、4本塁打16打点を記録した。翌53(S28)年も51試合に出場したものの打撃の状態が上がらず、打率.222、1本塁打5打点に終わる。
 54(S29)年からは出場試合数を減らす。打率.296、4本塁打10打点とまずまずの状態だったものの、出場試合数は34試合に終わる。オフには背番号を30に変更した。
 <222試合、打率.263、300打数79安打、13本塁打、48打点、0盗塁>

 → 大館 勲夫 背番号30へ(有料エリア)

 ★《2代》1955(S30)年・1年 阪田 芳秀(さかた よしひで) 捕手(在籍4年)

 【阪田 芳秀 背番号変遷】43(2) ⇒ 30(1) ⇒ 32(1)
 1952(S27)年に社会人・コロムビアから入団し、4年目の54(S29)年に背番号を30から32に変更した。
 しかし、前年に続き54(S29)年も一軍未出場に終わり、オフには引退した。
 <15試合、打率.179、28打数5安打、0本塁打、1打点、1盗塁>

 → 阪田芳秀 背番号30へ(有料エリア)

 ★《3代》1956(S31)年~1961(S36)年・6年 若生 智男(わこう ともお) 投手(在籍8年)

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