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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/(32)「30」監督・コーチ・野手の背番号から投手の背番号へ】

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(写真 左から、25代・現在背番号30の廣畑敦也、上)初代・NPB初代盗塁王の苅田久徳、下)NPB初代首位打者の中根之、9代・球団史上初の盗塁王西田孝之、17代・いぶし銀の守備を見せた森田芳彦、21代・抑えとして君臨した小林雅英)


(32)「30」監督・コーチ・野手の背番号から投手の背番号へ

 背番号30の系譜を辿ると、その時代時代で顔となる選手や監督が背負って来た番号である。初代の苅田久徳はNPB創設年からプレーしていた選手で、1936年秋期に初代盗塁王に輝いた選手だった。続いてコーチ・二軍監督として30を背負った2代の中根之は同じくNPB創設年からプレーし、1936年秋期に初代首位打者を獲得した選手だった。その後、一軍監督となる本堂保次や一軍監督として宇野光雄、田丸仁も背負った。ロッテオリオンズとなってからは職人的な野手に引き継がれ、マリーンズとなってからは投手が引き継いだ。背番号30を大きく育てたのは「幕張の防波堤」こと小林雅英だった。試合最後に背番号30がマウンドに上がると安心感があった。その後も投手に引き継がれているが、25代となる廣畑敦也も小林に負けない大きな背番号として育てて欲しい。

----- 現在の背番号「30」 -----

 ★《25代》2022(R4)年~2024(R6)年・3年目 廣畑 敦也 投手(在籍3年目)

 【廣畑 敦也 背番号変遷】30(3)
 2021(R3)年のドラフト3位で社会人・三菱自動車倉敷オーシャンズから入団した廣畑敦也が背番号30を引き継いだ。
 ルーキーイヤーの2022(R4)年から開幕一軍入りを果たす。開幕5戦目・3月31日のソフトバンク3回戦(ZOZOマリン)に3番手として初登板。4月5日の日本ハム1回戦(札幌D)では3番手として登板しピンチを切り抜ける好救援でプロ初ホールドを記録する。しかし、ピンチを招く場面も見られ、以降一軍と二軍を往復する。1年目は30試合に登板し0勝1敗2ホールド、防御率4.91で終えた。
 2年目の23(R5)年も開幕一軍入り。しかし、リリーフ登板した試合で失点し1試合で抹消される。再登録後の5月21日の楽天7回戦(楽天モバイル)では予告先発の森遼大朗が先発回避。2点リードした2回から2番手として登板し3回1失点で切り抜け初勝利をマークする。その後は初先発にも指名されるが失点が続き6月上旬に再び抹消され、そのままシーズンを終えた。2年目は8試合に登板し1勝1敗、防御率5.73で終えた。
 (23年シーズン終了時)
 <38試合、1勝2敗、防5.10、1先発、0完封、40奪三振>

----- オリオンズ&マリーンズ「30」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年・9ヶ月 苅田 久徳(かりた ひさのり(きゅうとく)) 内野手(在籍1年)

 【苅田 久徳 背番号変遷】30(途中)
 NPB創設年からセネタースでプレーし初代盗塁王に輝く。戦中は現役を退き、戦後はプロ野球に復帰し急映(東急)でプレー。前々年の1948(S23)年限りで現役を再び退いていた苅田久徳が39歳でプロ野球界に再復帰。毎日球団創設に参加し、初代背番号30を背負った。名二塁手と評価され、NPB史上初めて「隠し球」をした選手としても知られていた名選手が合流した。
 1950(S25)年の毎日初出場は4月15日の東急5回戦(後楽園)に8番遊撃で初出場。毎日初安打、初打点も記録する。その後、20試合に出場し打率.262を記録していたが、シーズン途中(時期理由不明)に近鉄に移籍した。
 <20試合、打率.262、42打数11安打、0本塁打、3打点、1盗塁>

※1951(S26)年 空番

 ★《2代》1952(S27)年~1953(S28)年・2年 中根 之(なかね すすむ) 二軍コーチ ⇒ 二軍監督 ⇒ 一軍コーチ(在籍3年)

 【中根 之 背番号変遷】30(2) ⇒ 50(1)
 戦前は名古屋でプレーし、NPB初代首位打者となり、戦前の1リーグ時代の最高打率を記録した中根之が、1952(S27)年に創設された二軍の打撃コーチに就任し、背番号30を着けた。翌53(S28)年には二軍監督だった若林忠志が一軍監督に復帰したため、中根が二軍監督に就任した。54(S29)年には一軍コーチに就任するのに伴い、背番号を50に変更した。

 ★《3代》1954(S29)年・1年 阪田 芳秀(さかた よしひで) 捕手(在籍4年)

 【阪田 芳秀 背番号変遷】43(2) ⇒ 30(1) ⇒ 32(1)
 1952(S27)年に社会人・コロムビアから入団し、54(S29)年に3年目を迎える阪田芳秀が背番号を43から30に変更した。
 前年2年目に初めて一軍に出場(15試合)したが、54年は一軍未出場に終わり、オフには背番号を30から32に変更した。
 <15試合、打率.179、28打数5安打、0本塁打、1打点、1盗塁>

 ★《4代》1955(S30)年・1年 大館 勲夫(勲)(おおだて いさお) 内野手(在籍6年)


  ※1954(S29)年まで勲、55年は勲夫

 【大館 勲夫 背番号変遷】32(5) ⇒ 30(1)
 6年目を迎えた大館勲夫が1955(S30)年に背番号を32から30に変更した。主に代打として活躍し、前年54(S29)年は主将を務めた。
 前年は31試合と出場試合数を減らしていたが、55(S30)年はさらに減らした。このシーズンも開幕ベンチに入り2戦目には代打で登場してヒットを放つスタートを切った。しかし、以降はヒットが出るもペースが減り、打率もジリジリ落とす。最終的に21試合に出場し21打席で5安打(.263)、本塁打は移籍以来初めて0本に終わり、このシーズン限りで引退した。
 <222試合、打率.263、300打数79安打、13本塁打、48打点、0盗塁>

 ★《5代》1956(S31)年・1年 本堂 保次(ほんどう やすじ) 内野手兼任コーチ(在籍8年)

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