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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/(25)「23」主軸野手が紡いだ背番号23】

割引あり

(写真 左から、18代・今季から23を継ぐ石川慎吾、初代・打線をけん引した呉昌征、2代・在籍は3年だったが移籍後阪急で主軸を務めた衆樹資宏、8代・華麗な守備が魅力だった水上善雄、9代・堅実な攻守で15年佐藤兼伊知、13代・ケガに泣かされながらも17年の大塚明)


(25)「23」主軸野手が紡いだ背番号23

 改めて背番号23の系譜を辿ると、初代の「人間機関車」呉昌征から始まり、衆樹資宏、石黒和弘、水上善雄、佐藤兼伊知、大塚明と技術肌の野手が連なる系譜であることが分かる。いわゆる「攻守」両面で活躍した選手が多い。そして、もう一つ、息が長い選手が多いのも特徴だ。昨季、移籍した石川慎吾もこの系譜に継ぐ選手だと言えるだろう。今季のフルシーズンでの活躍に期待したい。

----- 現在の背番号「23」 -----

 ★《18代》2024(R6)年~・1年目 石川 慎吾 外野手(在籍2年目)

 【石川 慎吾 背番号変遷】50(途中) ⇒ 23(1)
 2023(R5)年7月3日、巨人の小沼健太とのトレードにより移籍した石川慎吾が入団し、小沼が着けていた背番号50を継いだ。
 23(R5)年は外野陣の離脱での緊急トレードだったが、6日の西武戦(東京D)に代打として初出場すると、移籍後初安打を記録する。以降、代打や左投手時の先発として44試合に出場、打率.348、2本塁打10打点を記録した。オフには背番号を23に変更し、新たにフルシーズンの活躍を誓った。
 (23年シーズン終了時)
 <44試合、打率.348、112打数39安打、2本塁打、10打点、0盗塁>

----- オリオンズ&マリーンズ「23」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年~1956(S31)年・7年 呉 昌征(ご まさゆき/しょうせい) 外野手(在籍8年)

 【野球殿堂入り】野球殿堂特別表彰(1995年)

 【呉 昌征 背番号変遷】23(7) ⇒ 53(1)
 1リーグ時代は巨人と阪神の両チームで活躍した外野手で、そのエネルギッシュな攻守から人間機関車と呼ばれた呉昌征が球団創設年に大阪から移籍し入団。背番号はプロ入り以来つけていた23を背負った。
 1950(S25)年は開幕戦で1番左翼でスタメン出場し、いきなり3安打猛打賞を記録して球団初勝利を呼び込む活躍。以降も1、2番に入り打線をけん引。5月から6月にかけては16試合連続得点を記録するなど、移籍1年目は打率.324(リーグ4位)、7本塁打45打点29盗塁で初代パ・リーグ王者に貢献。日本シリーズでは2番左翼で全試合にスタメン出場。打率.182と低調だったが、第2戦では日本シリーズ初本塁打を記録し、最終第6戦では2点タイムリーを放ち日本一に貢献した。翌51(S26)年も打率.302(リーグ7位)と連続3割をマーク、3本塁打25打点18盗塁を記録する。
 52(S27)年は9月16日の東急戦(川崎)で、史上初となる350盗塁を記録したが、108試合に出場したものの調子を落とし、規定打席も割り、打率は.223と低調に終わる。53(S28)年は101試合に出場、打率.272と調子を取り戻すも、翌54(S29)年はルーキーの山内和弘が台頭し控えに回る試合が多くなる。最終的に89試合に出場したが、代打、代走、守備固めが主となり打席は138打席、打率は.243だった。1955(S30)年は好調をキープし、スタメン出場の機会主増やす。最終的に107試合に出場し、打率は.329で終えた。
 しかし、力の衰えは隠せず、1956(S31)年は72試合の出場で.159と低迷。オフには長年親しんだ背番号23を衆樹資宏に譲り、自らは53に変更した。
 <722試合、打率.287、1664打数477安打、13本塁打、151打点、94盗塁>

 ※在籍時に達成した主な記録
  ◆16試合連続得点(1950年5月15日~6月21日)
  ◇1000試合出場(1950年5月1日、史上2人目)
  ◇1000安打(1951年6月3日、史上7人目)
  ◇300盗塁(1950年5月25日、史上初)
  ◇350盗塁(1952年9月19日、史上初)
  ◇1500試合出場(1955年5月12日、史上3人目)

 ★《2代》1957(S32)年~1959(S34)年・3年 衆樹 資宏(もろき すけひろ) 外野手(在籍3年)

 【衆樹 資宏 背番号変遷】23(3)
 1957(S32)年に慶應義塾大学から入団した衆樹資宏が背番号23を引き継いだ。
 ルーキーイヤーから開幕一軍。3月30日の開幕西鉄戦(平和台)では代打で初出場。開幕4戦目の4月6日の南海戦(後楽園)に1番中堅で初スタメン。2安打を放ち初安打を記録する。以降、センターの定位置をつかみ、下位打線ながら122試合に出場し、1年目の57(S32)年は規定打席に到達。打率.221(リーグ26位)、7本塁打38打点を記録した。翌53(S33)年も規定打席に到達は出来なかったものの、102試合に出場し打率.212、5本塁打26打点だった。
 3年目の59(S34)年は田宮謙次郎の移籍で出場試合数を大幅に減らし、69試合の出場に留まった。オフの11月に飲酒運転で交通事故を起こしたが、1年目にはタクシー運転手を殴る事件も起こしており、球団は衆樹の素行を問題視した。しかし、深く反省していたこともあり、心機一転のために阪急へ無償移籍し、阪急では主軸として活躍した。
 <293試合、打率.222、762打数169安打、14本塁打、75打点、28盗塁>

 ★《3代》1960(S35)年~1962(S37)年・3年 石川 進(いしかわ すすむ) 外野手(在籍5年)

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