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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/(27)「25」正統・打撃職人の系譜】

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(写真 左から、13代・打撃の職人の系譜を継ぐ岡大海、初代・パ初代本塁打王・打点王・MVP、兼任監督も務めた別当薫、日本シリーズで活躍した井石礼司、左の打撃職人得津高宏、上)7代・松本市で活躍し市の助役からプレゼントを受ける松本尚樹、下)8代・背番号25から出世した今江敏晃)


(27)「25」正統・打撃職人の系譜

 初代パ・リーグ本塁打王・打点王・MVP、後年は監督兼任も任された別当薫から始まった背番号25の系譜は「打撃職人」的な打者に受け継がれてきた。無類の勝負強さが光った石井礼司、巧みなバットコントリールは落合博満も教えを乞うた得津高宏。途中、投手の平沼定晴が9年背負ったが、その後はミート力に長け長野県松本市の試合で活躍し松本市から特別表彰された松本尚樹、看板の背番号8へと出世した今江敏晃。そして今、昨季自己最高の打率.282を記録した岡大海に脈々とつながっているのが背番号25だ。

----- 現在の背番号「25」 -----

 ★《13代》2019(R1)年~2024(R6)年・6年目 岡 大海(おか ひろみ) 外野手(在籍7年目)

 【岡 大海 背番号変遷】39(途中) ⇒ 25(6)
 前年2018(H30)年7月26日に、藤岡貴裕とのトレードで日本ハムから移籍した岡大海が前年は背番号39だったが、19(R1)年に25へ変更した。
 19(R1)年は、開幕一軍入りを果たすもヒットが出ず4月中旬に二軍落ち。約2週間で再合流すると、代走や守備固めとして試合に出場する。9月に荻野が離脱すると1番中堅でスタメン出場。最終的に95試合に出場し、打率.227、自己最多となる6本塁打16打点、13盗塁を記録した。翌20(R2)年は、前年と同様代走や守備固めで出場も、後半は新型コロナの濃厚接触者として抹消されるなど、62試合に留まり、打率.143、2打点7盗塁に終わった。
 21(R3)年は開幕3戦目でスタメン出場。以降、スタメンと代打で出場する。4月21日の日本ハム5回戦(ZOZOマリン)ではスタメン出場し、9回裏二死一塁で逆転サヨナラ2ランを放つ。チームの逆転サヨナラ本塁打は、2001年のボーリック以来20年ぶり、日本人では97年の初芝清て以来24年ぶりのことだった。これで「スカパー! ドラマティック・サヨナラ賞」3・4月度を受賞した。また、10月15日のソフトバンク22回戦(ZOZOマリン)でも二死1塁でシーズン2度目となるサヨナラ2ランを放ち「スカパー! ドラマティック・サヨナラ賞」10・11月度と年間大賞を受賞した。最終的に自己最多となる110試合に出場し、打率.242、6本塁打18打点だった。翌22(R4)年は、6番中堅で開幕スタメン。前半は荻野貴司、角中勝也がケガ離脱で外野の一角を担う。荻野、角中の一軍復帰後は、代打や代走、守備固めで途中起用され、最終的に98試合に出場し、打率.217、6本塁打19打点。盗塁は12盗塁を記録したが失敗は0だった。
 23(R5)年は序盤から打撃好調でスタメン起用も増える。前半は.249だったものの夏場には状態を上げ、最終的に109試合に出場し、打率.282、7本塁打33打点と3部門で自己最高を記録した。
 (23年シーズン終了時)
 <525試合、打率.237、1039打数246安打、28本塁打、101打点、65盗塁>

 ※在籍時に達成した主な記録
  ◇100盗塁(2023年7月24日・ソフトバンク13回戦(ZOZOマリン)、史上251人目)

----- オリオンズ&マリーンズ「25」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年~1956(S31)年・7年 別当 薫(べっとう かおる) 外野手(在籍8年)

 【野球殿堂入り】野球殿堂競技者表彰(1988年)

 【別当 薫 背番号変遷】25(7) ⇒ 50(1)
 球団創設時に大阪から移籍して入団した別当薫が、大阪時代と同じ背番号25を背負った。前年はプロ入り2年目だったが、打率.322、39本塁打126打点をマークしていた。
 球団創設初戦では3番中堅でスタメン出場し2安打を記録する。3戦目の3月15日の南海戦(大須)では移籍1号を放ち、移籍初本塁打初打点をマークする。ところが、バットの状態が上がらない。4月末時点では7本塁打を放ちながらも、打率は.229と低迷する。5月に入るとようやくエンジンがかかり、6月には3割に到達。この時点で本塁打は17本塁打を放っていた。夏場にはさらに状態を上げ、最終的に打率.335でリーグ2位に入り、43本塁打で本塁打王、105打点で打点王とパ・リーグ初代の2冠のタイトルホルダーとなる。160安打で最多安打(当時は表彰なし)も記録し、パ・リーグ初代のMVPにも選出される。松竹との日本シリーズでも打率.500、3打点と活躍し、日本シリーズMVPにも選出された。
 翌51(S26)年は7月26日の近鉄11回戦(後楽園)で1イニングに二盗、三盗、本盗と連続して成功させるパーフェクトスチールを達成する。このシーズンは飛ぶボールが廃止され本塁打は大幅に減少し、16本塁打だったが、シーズン通して好調を維持し、打率は.309でリーグ4位を記録、前年に続きベストナインに選出された。
 翌52(S27)年には7月16日の西鉄戦で発生した「平和台事件」(毎日の遅延行為に西鉄ファンがグランドに殺到して騒動となった)の責任をとる形で、7月27日に湯浅禎夫総監督が解任、若林忠志監督が二軍監督に降格となり、別当が選手兼任監督代行となった。9月7日の西鉄戦(平和台)では0-9と大きくリードされた8回裏に別当がマウンドに上がった。打者4人に対し1四球1三振でマウンドの下りたが、人気のあった別当がマウンドに上がることで7月の騒動に詫びるファンサービスの意味合いがあった。チームは、別当が就任した時点で残り43試合だったが30勝13敗と猛追し、優勝した南海とは1.0ゲーム差の2位だった。別当自身は最終的に打率.279と3割を割ったがリーグ19位、18本塁打67打点で、このシーズンもベストナインに選出された。
 53(S28)年は騒動が終息したことから、湯浅総監督・若林監督体制に戻り、別当は選手専任に戻ったが、ケガもあり82試合の出場に留まり4年連続到達していた規定打席に届かなかった。それでも打率.305、11本塁打48打点で球団創設年から4年連続ベストナインに選出された(自身は大阪時代から6年連続)。
 前年チームは5位に低迷し湯浅・若林体制を解体。54(S29)年から別当が選手兼任監督に就任する。専任のコーチは置かず、助監督兼選手として呉昌征、コーチ兼選手として西本幸雄、本堂保弥、仲根之を配した。しかし、このシーズンは自身の打撃の状態が上がらず、108試合に出場したものの打率.248、11本塁打45打点に終わったが、チームは3位と奮闘した。
 55(S30)年は若手を外野に積極的に起用する。自身は73試合に出場、打率.276で波は少なかったが4本塁打24打点に終わる。チームは3位だった。56(S31)年はさらに出場試合数が減り、50試合に出場し
 打率.275ながら初めて0本塁打に終わった。チームは4位に終わった。オフには来季も監督兼任となるが、背番号を50に変更した。
 打撃<665試合、打率.294、2271打数667安打、103本塁打、366打点、157盗塁>
 投手<1試合、0勝0敗、防0.00、0先発、0完封、1奪三振>

 ※在籍時に獲得したタイトル
  ◆本塁打王(1950年)
  ◆打点王(1950年)
  ◆最多安打(1950年)当時連盟表彰なし
 ※在籍時に選出された表彰
  ◆最高殊勲選手(MVP)(1950年)
  ◆ベストナイン/4度(1950年~53年/全て外野手)自身通算6度受賞
  ◆日本シリーズ最高殊勲選手賞(MVP)(1950年)
 ※在籍時に達成した主な記録
  ◆1イニング3盗塁(1951年7月26日・近鉄11回戦(後楽園) 日本タイ、球団タイ記録)
  ◆3年連続最多長打(1950~52年) パ・リーグ最長タイ記録
  ◇100本塁打(1951年5月15日・南海7回戦(大須)、史上7人目)

※1957(S32)年 空番

 ★《2代》1958(S33)年~1964(S39)年・7年 塩津 義雄(しおつ よしお) 内野手(在籍7年)

 【塩津 義雄 背番号変遷】25(7)
 1958(S33)年に鹿児島商業高校から入団した塩津義雄が空番だった背番号25を引き継いだ。別当監督が「スラッガーになれる」と評した期待の選手だった。
 1年目の58(S33)年は二軍で研鑽し、シーズン最終盤に一軍合流。10月1日の阪急26回戦(後楽園)に初出場、途中出場ながら2打数2安打で初安打も記録した。最終戦の10月8日の近鉄戦(浦和市営)には7番三塁で初スタメンも果たし、2年目へ期待を抱かせた。
 2年目の59(S34)年は6月に一軍合流。好調なバッティングでスタメン起用もされる。しかし、好調を維持出来ずに一軍と二軍を往復する。再登録されたシーズン最終盤の10月17日の西鉄戦(後楽園)でプロ初本塁打を放った。このシーズンは27試合に出場し、打率.230、1本塁打5打点に終わった。
 60(S35)年は自身初の開幕一軍入り。代打要員として登場するもヒットが出ず二軍落ち。中盤に再登録も打撃の状態は上がらなかったが、本職の内野以外に外野も守り、守備要員として42試合に出場し、打率.160、3本塁打6打点でリーグ優勝に貢献。日本シリーズでは最終第4戦でスタメンもノーヒットに終わった。翌61(S36)年はケガもあり、一軍未出場に終わる。
 62(S37)年は6月の東京球場開場試合に一軍合流し途中出場する。二軍での好調な打撃を買われたが、一軍ではサヨナラを放つなどしたが、徐々に調子を落として2割を切り二軍落ち。その二軍では
イースタンの首位打者を獲得し、最終盤に一軍合流。好調な打撃を一軍でも見せ、最終的に49試合に出場し、打率を.279まで上げた。
 63(S38)年は開幕一軍を外れたものの4月下旬には一軍合流。代打として出場し、当初は調子が今一つだったものの徐々に調子を上げる。スタメン中堅として定着し、最終的には自己最多の76試合に出場した。しかし、終盤は調子を落として打率は.226、2本塁打13打点に終わった。翌64(S39)年は、外野陣に若手が台頭し、出場は59試合に留まり、打率も.193と低迷。オフには保留名簿から外れ(自由契約)、中日から声がかかり移籍した。
 <256試合、打率.225、374打数84安打、7本塁打、32打点、5盗塁>

 ★《3代》1965(S40)年~1971(S46)年・7年 井石 礼司(いいし れいじ) 外野手(在籍7年)

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